【家族の話】上野の案件に対する父の対応
上野にいる傷痍軍人が本当の父親だと、母が執拗に迫ってきた話の続き。
避けていた上野に、社会人になってから再び訪れるようになった。同期との飲み会は、上野が多かったのだ。久しぶりの上野はひどく緊張したが、昔のような光景はもうなかった。
10年あまりで、あの傷痍軍人たちはどこへ行ったのだろうか。幸せに暮らしているだろうか。思いを巡らせていたとき、ふと心に引っかかった。
当時を思い出して目に浮かぶのは、傷痍軍人と母の姿だけ。父の腕にぐっとしがみつく感触は思い出せるのに、父の言葉や表情はどうしても思い出すことが出来ない。
私が辛い思いをしているのに、なぜ父はもっと助けてくれなかったのだろうか。
父は、決して私を不安にさせるようなことは言わなかった。だが同時に、私を不安にさせている母の行為に苦言を呈することもなかった。
私が心の中で早く終われと祈っている間、父も同じように祈っていたのだろうか。
母は、自分の行いはすべて正しいと思っている人だ。私が怖がりイヤがっているのを見ても罪悪感など一切ない。だから、苦言を呈したところで、冗談の通じない方が悪いということになる。
母は、自分の気に入らないことを言われたり、されたりした場合は「カチンときた!」と言って、相手が誰であろうとコテンパンにとっちめる。だから、母の周りでは喧嘩が絶えない。旅先だろうとなんだろうと、気に入らないと知らない人とでも大喧嘩だ。
母が70代前半のころのこと。子どもたちを連れて実家に遊びに行くと、玄関先に出迎えた母の声が、病気かと思うほどにカッスカスだった。聞くと、隣人と大げんかになり、怒鳴り合っていて声が嗄れたのだという。いくつになっても健在だなと妙に感心したほどだ。
そんな人間に苦言を呈すれば、火に油を注ぐようなものだ。父はそれを分かっていて、ただ私の盾になるだけだったのではないだろうか。父らしいと思い、私はそれでいいと思っていた。
しかし、あるとき、違う見方もあるということを知った。
3つ上の兄と父について話していたときのこと。
「おまえはお父さんが好き過ぎて分からないのかもしれないが、お父さんは優しいんじゃなくて、事なかれ主義なだけだぞ。だから、家庭内に解決されない問題が山積みなんだ。良くないことから目を背けているだけなんだ。オレはお父さんみたいにはなりたくないね」
衝撃だった。頭がクラクラした。この世にお父さんを悪く言う人が存在するなんて、思いもしなかった。しかも、息子。何やら少しだけ母を養護するような発言までもあった(驚きすぎて詳細は覚えていない)。
しばらく考えるうちに、兄の言うことも一理あると思うようになった。母を我が家の独裁者に君臨させてしまった原因には、父の事なかれ主義が起因しているかもしれない。
父が言えないなら私が言ってやる。20代前半の私は、いつでも臨戦態勢で母の悪行をパトロールしていた。
人の不幸は蜜の味、知り合いの悪口から芸能人の批判まで。母が口にする悪態の数々に対して、私はもっと柔軟なものの考え方をするようにとレクチャーしているつもりだった。しかし、何ひとつ変わらない。
今となっては、自分を愚かに思う。人を変えようだなんて、おこがましい。人の振り見て我が振り直せで、十分なのだ。母はそういう人なのだと受入れることの方が重要だ。
あるとき、父はこう言った。
「ママは、最も人間らしい人間なんだよ。喜怒哀楽をここまで出せる人はなかなかいない。そういう、ママのいいところを見てあげよう」
あるとき、兄はこう言った。
「バカとはさみは使いよう。お母さんって、やり過ぎる節もあるけど、気が利くのも確か。まあ、上手くやるのが一番だよ」
またあるとき、父はこう言った。
「逆らわず、従わず」
父も兄もなんだか怖い。そんな考え方でいいのかとも思うけど、結局これが正解なのかもしれない。兄も私も、結局は父と同じ事なかれ主義に落ち着いた。母にはこれが一番の対応だ。
母について気付いたこともある。母は、私たち3人とは正反対で、友だちがたくさんいる。喧嘩して疎遠になる人も多いが、すぐに新しいコミュニティーに参加できる。気前のいい母は、浅い付き合いならみんなの人気者。それも1つの才能だ。
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
次回は、父が怒った3つのできごとの話
【家族の話】本当の父親は誰?
かつて上野が苦手だった。子どものころの私にとって、上野は危険な場所だったからだ。
年に何度か上野恩賜公園に行った。そして、毎度悲劇は起きた。
上野での我が家の行動ルートは決まっていた。上野駅公園改札口を出て、上野恩賜公園に入る。公園で遊ぶだけの日もあれば、動物園や国立科学博物館に入る日もあった。あちこち散策した後、西郷隆盛像を経由し、不忍池を1周してから中央通りに出る。そして、中央通りを駅方面に進み、広小路口から駅構内へ。
その間に何が私を危険に晒していたか。
私が子どものころの上野は今のようにきれいな街ではなく、東京の繁華街の中では最も戦争の傷跡が残っていたように思う。西郷隆盛像の真下辺りの中央通り路上には、靴磨きの人や戦争で腕や脚を失い物乞いをする人がずらっと並んでいた。
聞こえてくる悲しげなアコーディオンのメロディ。
私は傷痍軍人の横を通る時は、なるべく見ないようにうつむいた。そんな私を見て母は
「ほら、本当のお父さんだよ」
と耳元でささやき、私の背中を突いた。
私は、父の腕にしがみついて、後ろに隠れるので精一杯だった。母の顔をチラリと見ると、母は悪気もなく楽しそうに笑っている。
「いや、あっちの人だったかなあ? ほら、お父さんって言っておいで」
涙を浮かべて抵抗する私に、母は楽しげに執拗に迫ってくる。
(早く終われ、早く終われ)
私は目をつぶり、父にしがみ付きながら、心の中で祈ることしかできなかった。
小学校低学年までは、母のこの行為が怖くて、悲しくて仕方がなかった。しかし、少しずつ疑問が沸いてきた。
どう考えても、ありえない。私は母と顔がそっくりだとよく言われた。こんなに顔が似ているのに、私が母の子でないとは思えない。ならば私は、母と傷痍軍人の娘となる。母こそ挨拶をしに行けばいいのだ。
なぜ、そんなつまらない嘘をつくのだろうか。母は楽しそうだが、何がそんなにおもしろいのだろうか。
私は、あるときしっかりと反論した。
「ちっともおもしろくないから、やめて!」
「あら、なによ。冗談も通じないの? 私だって昔おじいちゃんによく言われたわよ。橋の下から拾ってきた子だってね。そんなの冗談に決まってるじゃない」
「じゃあ、お母さんは言われて笑えたの?」
「笑いはしないわよ。でも、冗談なんだから。イヤだからやめてよ~っていうじゃれ合いがおもしろいんじゃない」
橋の下もイヤだけど、橋の下の方が具体性に欠けるからまだましだ。こっちは、目の前で物乞いしている傷痍軍人を突きつけられているんだ。
そもそも、傷痍軍人にも失礼だ。母は「あの人たちは国からお金を貰ってるのに、同情を引いて募金させようとしてるだけ」と言ってひどくさげすんでいた。
例えそれが事実だとしても、さげすむ上に、子どもを怖がらせるネタに使っていいはずがない。
中学生になると、親子で出かけることもなくなり、上野に行く機会もなくなった。
中学時代、友人とこの手の話で盛り上がったことがある。近所を流れる川の橋の袂には産婦人科があり、多くの友人がその病院で生まれていた。その友人たちは、口を揃えて「親から病院ではなくて、その橋の下で拾ろわれた」と聞いたと言って笑っていた。
また、高校時代の友人は「肉屋で100グラム100円の肉のかたまりだったらしい。3250円で買われた」と笑った。
みんなが笑い話にしていることにも驚いたし、親世代の間では、ポピュラーな冗談だったことにも驚いた。
冗談で片付けていいのだろうか。私の頭が固いのか?親が、子どもを不安がらせる冗談を言ってはいけないと思うのだが……
じゃれ合いやイジりの境界線が分からない人がいる限り、この世からイジメはなくならないとも思う。
自分に子どもが生まれたら、子どもに生まれた日のことを詳しく話してあげようと、私はずっと思っていた。
そして実際に、子どもたちの誕生日には、生まれた日のことを毎年話した。子どもたちは、何度でもうれしそうに聞いていた。
話している私も幸せだった。親にして欲しかったことを私が子どもにすることで、私の心は慰められ癒される。
前の世代からの負の連鎖を断ち切れば、幼いころの傷ついた心は浄化されるのだ。
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
次は、この件に対する父の対応の話
【家族の話】幼いころの私と父
幼い頃の記憶は曖昧で、ポツポツと覚えている程度だが、どれも大切な思い出だ。
【両肩変色ジャケット】
父のMA-1風のセージグリーン色のジャケットは、両肩が変色していた。
その両肩変色ジャケットを着ている父に抱っこされて、遠ざかる散歩道をぼんやり眺めている。そんな風景が私の中で一番古い父との記憶だ。
私が幼稚園くらいのときに、何年も着ずにしまい込んでいた両肩変色ジャケットを捨てた。父と母が、思い出深そうに変色のことを話していて、そのとき初めてその変色の原因が、私のヨダレだったと知った。
【浜辺のプール】
夏、海水浴に行くと、幼い私のために、父はスコップで浜辺に直径3メートル、深さ50センチほどの大きな穴を掘った。掘り進めると徐々に海水がしみ出してプールが出来た。プールにボートを浮かべて遊ぶのが、私のお気に入りだった。
ある年、このプールで問題が発生。脚にチクッと何かが刺さったと思って上がって見てみると、丸々太った蛭が付いていた。それ以来、浜辺のプールは閉園となった。
【読み聞かせ】
私は、H.A.レイの『ひとまねこざる』シリーズが大好きだった。読み過ぎて、全シリーズ表紙と本体は外れてボロボロ。
父に読んでもらうのが一番楽しかった。父の読み聞かせは独特なのだ。
一文を読むたびに、もう一度同じ文を繰り返して「~なんだ、ねぇ」と言う。
「川いっぱいの船が流れていくのを見て、ジョージは大得意でした。……ジョージは、川いっぱいの船が流れて行くのを見て、大得意だったんだ、ねぇ」と、こんな感じだ。
父のこの「~なんだ、ねぇ」と言う口調と声が優しくて、今でも目を閉じると聞こえてくる気がする。
1冊読み終わったら、次のお楽しみだ。同じ本をもう一度読む。今度は、ただ読むだけでなく、文章だけでなく挿絵にも父が文章を付ける。
「ジョージの作った新聞紙の船がたくさん川を流れていくね。あ、船にアヒルが乗ったよ。『ぐわぐわ、乗り心地いいなあ』『ぐわぐわ、上手く乗れないよ』って言ってる、ねぇ。お母さんアヒルがお船を追いかけている、ねぇ。『待ってちょうだい、ぐわぐわ』って言ってる、ねぇ。こっちは、カエルがびっくりして、川に飛び込んだよ。バシャーン! (オーバーアクション)魚もお船を追いかけているよ。スイスイスイ」
私も負けじと挿絵に擬音を付ける。
2回目を読み終わると、最大のお楽しみが待っている。本の文章完全無視で、パパ劇場が始まる。父は毎回全く別の話にすり替えた。
「パパ、お話ぜんぜんちがーう!」と言いながら読んでもらうのが楽しかった。
その様子を録音した古いカセットテープが1本だけ残っている。今はプレイヤーがなくて聴けないが、いつかまた聴きたい。
【背中がかゆい】
父はよく家で筋トレをしていた。私が小3くらいまでは、背中に私を乗せて腕立て伏せをしてくれた。
私は父の背中が大好きで、父が床に座っているのを見つけると、すかさず父の背中に抱きついた。すると、父は必ずこう言うのだ。
「あ、背中がかゆくなってきた。搔いてくれ」
「もぉ! またぁ?」
いつも背中を搔かせられて、心ゆくまで背中に抱きつくことができないのが不満だった。
一般的にはおかしいと思うのであまり言いたくないのだが、私は結婚する直前まで父の背中を常に狙っていた。そして、毎度背中を搔かされた。
結婚式の少し前、床に座っている父を見つけて「これで最後にしよう」と自分言い聞かせた。少しでも長く父の背中に抱きついていたかったが、最後もいつも通りだった。
ちなみに、結婚は30歳。かなりやばいヤツ……
【歌】
父は歌が好きだった。私が知っている童謡のほとんどが、父に教えてもらった歌だ。
私のお気に入りは『うさぎのダンス』
うさぎのダンス 野口雨情作詞・中山晋平作曲
そそら そら そら うさぎのダンス
タラッタラッタラッタ ラッタラッタラタタ
あしでけり けり ぴょこぴょこ おどる
みみに はちまき ラッタラッタラタタ
父が歌うと、目の前にうさぎの踊る姿が見える気がした。
入浴中の父は、風呂場のエコーの中で気持ちよさそうに毎日数曲歌った。
「へいこぉーら♪へいこぉーら♪」
何という民謡かは知らないが、必ず歌う民謡があって今でも私の耳に残っている。
父はいつも歌っていたし、話すときも語尾を伸ばして歌うようにおどけてしゃべるのだった。
最後まで読んでくださり
ありがとうございます。
次回は、本当のお父さんは誰? という話
【家族の話】父の生い立ち
2018年10月3日、父がデイサービス先で倒れたと連絡があった。
3か月後の2019年1月10日午前3時、父はこの世を去った。
父が亡くなったと介護施設から連絡が来たとき、私は悲しみよりも「お疲れ様でした」という気持ちが強く、気が動転することはなかった。葬式も四十九日法要も淡々と行い、落ち着いた日常を送った。
ところがまた秋になり、前年のこの時期に父が倒れたと思い出した瞬間に涙がこぼれ落ちた。父の一生の中で一番苦しかったであろう最期の3か月間の記憶が、私の中に戻ってきたのだ。父が倒れてから3か月間、病院の帰り道は堪えようにも涙が止まらなかった。
そして今年も、また秋がやってきた。昨年ほどではないが、やはり心がザワザワする。
もう会えなくなってしまったけれど、これからもずっと大好きなお父さん。苦しそうな最期の顔ばかり思い出してしまうけれど、幸せだった日々のことをもっと思い出したい。そして、この先もずっと父との思い出を大切に覚えていたい。
だから、父と私、そして母のことなど、家族のエピソードを書いてみることにした。
よかったらお付き合いください。
まずは、父の生い立ちから。当然ながら私が生まれる前のことなので、正確とは言い切れない。私が誰かから聞いたことを間違って記憶している可能性もある。
父は、東京で生まれた。家族は、祖母と母親と妹と弟の5人家族だ。父親と母親は、弟が生まれた後離婚している。母親は、目が不自由で按摩の仕事で生計を立てた。
幼少時代は、千葉県の佐原に疎開していた。
身長が158㎝と小柄だが、細マッチョ。弟(叔父さん)の話によると、中学時代は一本歯下駄を履き、やんちゃをしていたらしい。父のへそのすぐ横に三角形の傷があるが、やんちゃ時代に竹槍で突かれた痕。温厚な父からは想像も付かない。
高校は、当時日本橋にあった夜間高校。昼間は近くの牛乳屋で一家の大黒柱として働いき、弟を大学まで出した。高校卒業後はそのまま牛乳屋に就職。
26歳のとき母とお見合い結婚。
父にお見合いの話を持ってきたのは、牛乳屋に出入りしていた保険会社のおばさま。父のおどけてしゃべる陽気な雰囲気を見て気に入ったそうで、母の実家に猛プッシュをしたそうだ。
当時母は交際している人がいた。母曰く、背が高くて素敵な人だったらしい。しかし、母の父親(私の祖父)の猛反対で破局したようだ。
母の両親は、父のことを一目で気に入った。
だが、母自身の父への第一印象は「チビでちんちくりんな男」だったそうだ。逆に母の第一印象を父にも何度か聞いたことがあるが、いつも母が「パパはこんなきれいな人見たことないって思ったんだよね」と無理矢理割って入ってくるので聞けず仕舞い。父は無言のまま微笑むばかりだった。
2人の新婚旅行先は、伊勢志摩。
「パパがさあ、行きの新幹線で酔っちゃって。ぜんぜん治らないから、私は夕食を1人で食べたんだよ。パパの分は箸を付けないまま下げられて。夜中にお腹空いたとか言い出して。お茶漬け頼んだらバカみたいに高いしさ」
母は、新婚旅行での話をまるで昨日のことのように何度でも苦々しく話した。テレビで伊勢志摩の映像が流れようものならすぐに愚痴発動だ。何度聞かされたか分からない。私と父は、話の方向性の雲行きが悪くなると、話題を変えたり、席を立ったりして危険を回避する必要があった。
新婚旅行の翌日から、母は大忙しだった。牛乳屋の近くに住むことになったのだが、目の不自由な姑と弟との同居だった。更に、牛乳屋の職員のまかない料理を、母は1人で作ったそうだ。実家では料理経験がないのに、いきなり20人分。これは大変だ。
姑と弟とも上手くいかず、牛乳屋のまかないも大変で疲労困憊の日々だったと、繰り返し聞かされた。
母は平気で、というか当たり前の権限として、父に向かって父の親族の悪口を言った。それを父は黙って聞いているのだ。
何十年経とうとも、母の前で父の親族の話は危険だ。母はどんなに上機嫌でも一瞬で戦闘モードに入る恐ろしい人間なのだ。
確かに母の置かれた環境は大変だったと思うし、同情もする。でも、お見合い結婚なのだから、相手の家庭事情の予想はできたと思う。父は苦労人だし、ましてや長男だ。目の不自由な母親と同居することは容易く想像できる。
母は、まあまあ裕福な家庭育ちだ。そして、非常にわがままな性格だ。更に、母は父の育ちをさげすむ節がある。
なぜ、母がこの結婚を選択したのかが、私には分からない。
わがままな母でなくとも大変な環境だ。だから文句を言いたいこともあるだろう。けれども、父の親族の悪口を父に言うのはよくない。
その後、母が第一子を身ごもると、母の父親の助言により、父は牛乳屋の給料や将来性を考えて転職を決断した。転職先は、外資系企業の役員付の運転手。転職に伴い住まいも転居。この転居先が、なぜか西麻布だった。一家は、高級住宅街の中にひっそりと佇む小さなアパートに住み始めた。
そして、父が29歳のときに長男、32歳のときに長女(私)が生まれた。
最後まで読んでくださり
ありがとうございます。
【こぼれ話】自主性⑧
課題の説明後ミツキとリオから1000円を預かり、1日目がスタートした。ゴミの日ではないし、特に2人に手伝いを頼むこともなく時間は過ぎていった。
夕食の支度をしていてふと時計を見ると、5時過ぎだった。
「あ、そう言えば、お風呂掃除済んでる?」
「リオがやってくれた」とミツキ。
振り向くと、どや顔のリオがいた。
「リオ、ありがとう。助かるよ」
その日の晩。
「今日の課題クリアです。お疲れ様。1000円お返しします」
翌朝。
「はい、では今日の分の1000円頂きます」
「なんだか、めんどくせーな」
「面倒だけど、これが必要なんだよ。朝払ったお金が、自分のがんばりによって夜に返ってくる」
「ふーん」
2日目は、リオに朝食の食器洗い、ミツキに掃除を頼んだ。2人とも快く、即着手した。その後、昼過ぎに出かけるミツキは、予めリオに風呂掃除を頼んでいた。
3日目、ミツキは夕方出かける前に風呂掃除をしてから出ていった。
毎日ミツキとリオは、互いに折り合いを付け、とてもスムーズだった。
今まで何度となく注意してもできなかったことが、罰を設けたことでこんなにもあっさりと解決してしまうとは。なんだか複雑な気持ちだ。
リオは順応が早いから想定内だったが、ミツキに関しては想定外だった。
「ミツキがこんなに積極的にこの課題に取り組むと思わなかったよ。なんてったってミツキは『なんでも受入れちゃう系男子』だからさ」
「うん、そうなんだよね。オレも驚いてる。でもね、このスパンが短いっていうのがいいみたいなんだよ。長いとオレは、どうでもよくなっちゃうんだ」
「なるほど、やっぱりそこか」
中島美鈴著『もしかして、私、大人のADHD?』に「ADHDの人は、すぐに成果が得られるものには魅力を感じてやる気を出すことが出来ますが、成果が出るまでに時間かかかるものには急激にやる気をなくしてしまうことが、脳の報酬系の研究から分かっています。このことを専門的には『報酬遅延勾配が急である』と言います」とある。
毎日結果がすぐ出るから成功したのであって、7000円前払いの1週間単位だったら失敗しただろう。
また、ビンにビー玉を集めるポイント制などが頓挫したのも、この理由だろう。
つまり、この方法を用いれば、他にもミツキの抱えている問題をクリアできる可能性があるということだ。
このお手伝い計画を初めて2週間過ぎた。今のところは、とても順調だ。最近では、夜と朝の1000円の受け渡しは省略して、目の着くところに2000円を置いたままにしている。頃合いをみて完全に返金し、罰がなくともまっとうできるか確認したい。
ゴミ捨てと風呂掃除は、子どもたちが自分の仕事として進んで取り組み、それ以外は頼まれたら快く即着手することが、現段階での課題。
次の段階として、頼まれなくても状況を判断して自主的にやれるところまで持って行きたい。
【こぼれ話】自主性⑦
夏休み8日目、朝9時。私はミツキとリオを起こし、テーブルに並んで座らせた。
「家事は私の仕事でね、私自身は当たり前のこととして毎日やっている。でもね、それをあなたたちが、やってもらって当たり前、自分には関係ないと思ってはいけないの。
家事はママの仕事でしょう? なんで風呂掃除を毎日させるの? せっかくの休みの日になんで早起きしてゴミ出しをさせるの? 掃除機がけ面倒くさい。自分の部屋だけ特別にきれいにしたい。食器洗いしたくない。あなたたち、そんな風に思っているでしょう?
でもね、自分だってお風呂に入るし、ゴミを出しているし、食器を使っているし、家を汚しているよね?
自分に関わりのあることなんだから、なんでも人任せにばかりしないでほしい。せめて頼まれたことだけでも、気持ちよく心を込めてやってほしい……
と言う話は、今までに何度もしてきた。でも、改善はされなかった。だから、やむを得ず罰則を設けることにしました」
2人は不安そうにこちらを見ている。
「まず私に1000円払ってもらいます」
「えっ! どういうこと?」2人の声が重なる。
「私が1日にあなたたちに提供するサ-ビスの代金です。食事、洗濯、掃除などのこと」
「うーん」不服そうな2人。
「あなたたちに課題を出します。その課題がクリアできた日は、この1000円を返却します。1つでもクリアできなければ没収します。そして、翌朝また1000円払ってもらいます。つまり、クリアできれば、あなたたちに損はありません。スキー板レンタルの保険金なんかと同じシステムです」
「クリアできればいいんだな」とミツキ。
2人の表情が明るくなる。
「そう。課題をクリアさえすればいいのです」
「課題って?」リオが不安そうに言う。
「では、課題内容を発表します」
- 8時までにゴミ出しをする
- 私の依頼に快く、即着手する
- 5時までに風呂掃除をする
「課題は、たった3つの簡単なことです」
2人とも余裕の表情を見せている。
「余裕かなあ? 逆に言えば、今までできずにいたあなたたちにとっては、難題だと思うけど……」
戸惑う2人。
「まず、ゴミ出しは、前日に誰に頼むか言うから自分で起きて出してきてね。時間厳守」
うなずく2人
「次に、私の依頼には、快く即着手してね。あなたたち、コレできていないよ。
即とは1分以内ね。1分以内に着手できない理由があるときは、要相談ね。相談せずに1分経過したらアウトだから。2人ともスマホばかりで、なかなか着手しないよね。後回しにして忘れるときもあるから気をつけてね。
リオは必ず嫌な顔するよね。与えられた仕事は心を込めてやりなよ。おざなりはダメ。
ミツキは、自分の部屋だけ特別扱いして過集中になってはいけない。仕事の質は平等に」
2人とも決まりの悪い顔をした。
「私に言われたことに身に覚えがあるでしょう? これからはそこに注意して、自分を律して欲しいの」
「分かった」2人の声が重なる。
「最後に風呂掃除。これは1番大変だよ。なぜかというと、今日は誰が洗うって私が決めないから。とにかく5時までにミツキかリオがやって。バカみたいに牽制し合っていて5時過ぎたら、連帯責任で2人ともアウトだよ。昨日もオレがやったとか、ミっちゃんやらなくてずるいとか、そういうバカバカしいケンカはやめて。まずは、常に自分がやるつもりでいて。外出とかで出来ないときは、予め互いに話し合う。どうしたら相手に受入れられるか考えて交渉しなよ」
顔を見合わせる2人。
「自分が洗ったときに、相手に対して『やってやった』という上から目線の感情は、結局は自分を苦しめるよ。自分の行動によって人助けが出来たことに喜びを感じると気持ちがいいものだよ。
洗ってもらった方は、しっかりと感謝の意を表すと、互いの関係がスムーズになるよ」
うなずく2人。
「2人とも自分本位だし、やってもらうことばかりに幸せを感じている。でもね、こうしてお互いに協力し合ううちに、やってあげることの幸せに気付くと思うよ」
曖昧な表情の2人。
「情けは人のためならず、ってどういう意味かリオ分かる?」
「ん? 情けは人のためにならない?」
「そう思うよね。でも違うんだ。人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分に戻ってくるという意味だよ。例え、その相手から直に返ってこなくとも、巡り巡って必ず返ってくるんだよ。不思議だけど、世の中はそういう風に出来ているんだ。
ミツキとリオには、自分の我を控えて、人の喜びを自分の喜びにかえてほしいんだ。
その第一歩として、1000円を没収されないようにがんばって。
理解した? 何か質問はある?」
「いや、大丈夫」揃って答える。
「はい、では以上です。解散」
【こぼれ話】自主性⑥
今年はたった2週間の短い夏休み。自粛期間が3か月と長かったので、これで十分。子どもたちも納得している。
1週目は夫の会社も夏休みだったが、今年は帰省も旅行もなし。家で各自思い思いの過ごし方をした。
目覚まし時計をかけないと、放っておいたら皆いつまでも寝ている。しかし、ゴミの日だけは、8時までにゴミ出しをせねばならない。
夜、ミツキに翌朝のゴミ出しを頼んだ。
「お盆期間中は、いつもより早く回収車が来る可能性があるから、絶対に8時までに持って行ってね」
返事はよかったが、予想通りミツキはなかなか起きてこなかった。何度も促してやっと。
3日後のゴミの日。また夜に頼んでおいたが、今度は何度促しても起きて来ない。諦めて私が捨てに行こうと玄関にいると、リオが起きてきた。今日は部活だと言う。そんな話、私は聞いていない。しかも、あと15分で家を出るという。
「ご飯と冷蔵庫のお味噌汁だけでも食べてて」
と言ってゴミ捨て場に向かった。急いで戻ると、リオはもう歯を磨いている。
「もう食べたの?」
「うん、スイカ食べた」
「この暑いのにちゃんとご飯食べなかったら倒れちゃうよ」
「うーん、面倒だからいらない」
ああ、そうですか。ご飯の準備ができていれば15分でも食べていくが、自分で準備するなら面倒だから食べない。そして、カット済みのスイカなら食べると。
ミツキもリオも、なんだかなあ……
風呂洗いも相変わらず取り掛かりが遅い。食器洗いや掃除機掛けも「おざなり」あるいは「過集中」
やってもらうことは当たり前。でも、自分が動くことは面倒。ミツキとリオは常に自分本位だ。誰かのためにという心がない。
私が風呂掃除を5時と決めたのには理由がある。5時に風呂掃除をし、5時半にはミツキかリオのどちらかに入浴して欲しいのだ。なぜかというと、ミツキは入浴時間と入浴後のお肌と髪のお手入れに1時間半以上掛かるからだ。強迫性障害とADHDによる過集中で、この時間を短くするのは今のところ不可能だ。
だから、5時半にミツキが入浴すれば、6時半に浴室を出て、次にリオが入浴できる。リオは全行程で45分程度。6時45分に入浴し始めれば、7時半にはリビングに戻る。ミツキは、リオの入浴中にお肌と髪のお手入れをし、7時半にはリビングに戻れる。その後みんなで夕食。
2人が先に入浴を済ませておけば、夫が帰宅時にすぐに入浴できる。
ミツキは、絶対に自分は1時間入浴すると決めている。次の人のことなど考えない。だから、夫の帰宅時間付近(帰宅時刻はまちまちで読めない)にミツキの入浴を赦すことは御法度なのだ。この暑い中、1日一生懸命働いてきた父親にミツキは配慮ができない。
夫の後にミツキが入浴だと、夕食後にミツキ、その後に私。私が入浴できるのは午前0時近くになる。
では、ミツキが1番最後に入浴すればいいと思うが、それも問題が生じる。ミツキの入浴はなんだかうるさい。風呂の蓋の開け閉め、シャワー音。ひどくうるさい上に、入浴時間が1時間では済まなくなる。
夫に帰宅後すぐに入浴をさせてあげたい。時間を有効活用できるリオには、入浴後に夕食、その後の就寝時間までにリオの大切な時間を過ごさせてやりたい。
皆が夕食の時間にミツキを入浴させれば、時間的な余裕はできる。しかし、それではミツキのわがまま放題だ。
だから、ミツキは夕食前に入浴しなくてはならない。それには、5時に風呂洗いをする必要があるのだ。
家族がスムーズに気持ちよく生活するには、思いやりを持たなくてはならない。
「1人がみんなのために。みんなが1人のために」
何度も、何度も、そう諭してきたけれど、理解はしても、実践はできない。
たかがお風呂洗いでこんな具合なのだから、ゴミ出しも、食器洗いも、掃除機掛けも、自主的にやろうなんて2人とも思わない。
ミツキはリオがやればいいと思っているし、リオはミツキがやればいいと思っている。そもそも、2人は「ママがやればいい」と思っているのだ。
そんな考え方でいいの? あなたたち、そんな考え方じゃあ、幸せになれないよ。
こうなったら、最後の手段だ。