【家族の話】父の生い立ち

 2018年10月3日、父がデイサービス先で倒れたと連絡があった。

 3か月後の2019年1月10日午前3時、父はこの世を去った。

 父が亡くなったと介護施設から連絡が来たとき、私は悲しみよりも「お疲れ様でした」という気持ちが強く、気が動転することはなかった。葬式も四十九日法要も淡々と行い、落ち着いた日常を送った。

 ところがまた秋になり、前年のこの時期に父が倒れたと思い出した瞬間に涙がこぼれ落ちた。父の一生の中で一番苦しかったであろう最期の3か月間の記憶が、私の中に戻ってきたのだ。父が倒れてから3か月間、病院の帰り道は堪えようにも涙が止まらなかった。

 そして今年も、また秋がやってきた。昨年ほどではないが、やはり心がザワザワする。

 もう会えなくなってしまったけれど、これからもずっと大好きなお父さん。苦しそうな最期の顔ばかり思い出してしまうけれど、幸せだった日々のことをもっと思い出したい。そして、この先もずっと父との思い出を大切に覚えていたい。

 だから、父と私、そして母のことなど、家族のエピソードを書いてみることにした。

 よかったらお付き合いください。

 

 まずは、父の生い立ちから。当然ながら私が生まれる前のことなので、正確とは言い切れない。私が誰かから聞いたことを間違って記憶している可能性もある。

 

 父は、東京で生まれた。家族は、祖母と母親と妹と弟の5人家族だ。父親と母親は、弟が生まれた後離婚している。母親は、目が不自由で按摩の仕事で生計を立てた。

 幼少時代は、千葉県の佐原に疎開していた。

 身長が158㎝と小柄だが、細マッチョ。弟(叔父さん)の話によると、中学時代は一本歯下駄を履き、やんちゃをしていたらしい。父のへそのすぐ横に三角形の傷があるが、やんちゃ時代に竹槍で突かれた痕。温厚な父からは想像も付かない。

 高校は、当時日本橋にあった夜間高校。昼間は近くの牛乳屋で一家の大黒柱として働いき、弟を大学まで出した。高校卒業後はそのまま牛乳屋に就職。

 26歳のとき母とお見合い結婚。

 父にお見合いの話を持ってきたのは、牛乳屋に出入りしていた保険会社のおばさま。父のおどけてしゃべる陽気な雰囲気を見て気に入ったそうで、母の実家に猛プッシュをしたそうだ。

 当時母は交際している人がいた。母曰く、背が高くて素敵な人だったらしい。しかし、母の父親(私の祖父)の猛反対で破局したようだ。

 母の両親は、父のことを一目で気に入った。

 だが、母自身の父への第一印象は「チビでちんちくりんな男」だったそうだ。逆に母の第一印象を父にも何度か聞いたことがあるが、いつも母が「パパはこんなきれいな人見たことないって思ったんだよね」と無理矢理割って入ってくるので聞けず仕舞い。父は無言のまま微笑むばかりだった。

 2人の新婚旅行先は、伊勢志摩。

「パパがさあ、行きの新幹線で酔っちゃって。ぜんぜん治らないから、私は夕食を1人で食べたんだよ。パパの分は箸を付けないまま下げられて。夜中にお腹空いたとか言い出して。お茶漬け頼んだらバカみたいに高いしさ」

 母は、新婚旅行での話をまるで昨日のことのように何度でも苦々しく話した。テレビで伊勢志摩の映像が流れようものならすぐに愚痴発動だ。何度聞かされたか分からない。私と父は、話の方向性の雲行きが悪くなると、話題を変えたり、席を立ったりして危険を回避する必要があった。

 新婚旅行の翌日から、母は大忙しだった。牛乳屋の近くに住むことになったのだが、目の不自由な姑と弟との同居だった。更に、牛乳屋の職員のまかない料理を、母は1人で作ったそうだ。実家では料理経験がないのに、いきなり20人分。これは大変だ。

 姑と弟とも上手くいかず、牛乳屋のまかないも大変で疲労困憊の日々だったと、繰り返し聞かされた。

 母は平気で、というか当たり前の権限として、父に向かって父の親族の悪口を言った。それを父は黙って聞いているのだ。

 何十年経とうとも、母の前で父の親族の話は危険だ。母はどんなに上機嫌でも一瞬で戦闘モードに入る恐ろしい人間なのだ。

 確かに母の置かれた環境は大変だったと思うし、同情もする。でも、お見合い結婚なのだから、相手の家庭事情の予想はできたと思う。父は苦労人だし、ましてや長男だ。目の不自由な母親と同居することは容易く想像できる。

 母は、まあまあ裕福な家庭育ちだ。そして、非常にわがままな性格だ。更に、母は父の育ちをさげすむ節がある。

 なぜ、母がこの結婚を選択したのかが、私には分からない。

 わがままな母でなくとも大変な環境だ。だから文句を言いたいこともあるだろう。けれども、父の親族の悪口を父に言うのはよくない。

 その後、母が第一子を身ごもると、母の父親の助言により、父は牛乳屋の給料や将来性を考えて転職を決断した。転職先は、外資系企業の役員付の運転手。転職に伴い住まいも転居。この転居先が、なぜか西麻布だった。一家は、高級住宅街の中にひっそりと佇む小さなアパートに住み始めた。

 そして、父が29歳のときに長男、32歳のときに長女(私)が生まれた。

 

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

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