【家族の話】上野の案件に対する父の対応
上野にいる傷痍軍人が本当の父親だと、母が執拗に迫ってきた話の続き。
避けていた上野に、社会人になってから再び訪れるようになった。同期との飲み会は、上野が多かったのだ。久しぶりの上野はひどく緊張したが、昔のような光景はもうなかった。
10年あまりで、あの傷痍軍人たちはどこへ行ったのだろうか。幸せに暮らしているだろうか。思いを巡らせていたとき、ふと心に引っかかった。
当時を思い出して目に浮かぶのは、傷痍軍人と母の姿だけ。父の腕にぐっとしがみつく感触は思い出せるのに、父の言葉や表情はどうしても思い出すことが出来ない。
私が辛い思いをしているのに、なぜ父はもっと助けてくれなかったのだろうか。
父は、決して私を不安にさせるようなことは言わなかった。だが同時に、私を不安にさせている母の行為に苦言を呈することもなかった。
私が心の中で早く終われと祈っている間、父も同じように祈っていたのだろうか。
母は、自分の行いはすべて正しいと思っている人だ。私が怖がりイヤがっているのを見ても罪悪感など一切ない。だから、苦言を呈したところで、冗談の通じない方が悪いということになる。
母は、自分の気に入らないことを言われたり、されたりした場合は「カチンときた!」と言って、相手が誰であろうとコテンパンにとっちめる。だから、母の周りでは喧嘩が絶えない。旅先だろうとなんだろうと、気に入らないと知らない人とでも大喧嘩だ。
母が70代前半のころのこと。子どもたちを連れて実家に遊びに行くと、玄関先に出迎えた母の声が、病気かと思うほどにカッスカスだった。聞くと、隣人と大げんかになり、怒鳴り合っていて声が嗄れたのだという。いくつになっても健在だなと妙に感心したほどだ。
そんな人間に苦言を呈すれば、火に油を注ぐようなものだ。父はそれを分かっていて、ただ私の盾になるだけだったのではないだろうか。父らしいと思い、私はそれでいいと思っていた。
しかし、あるとき、違う見方もあるということを知った。
3つ上の兄と父について話していたときのこと。
「おまえはお父さんが好き過ぎて分からないのかもしれないが、お父さんは優しいんじゃなくて、事なかれ主義なだけだぞ。だから、家庭内に解決されない問題が山積みなんだ。良くないことから目を背けているだけなんだ。オレはお父さんみたいにはなりたくないね」
衝撃だった。頭がクラクラした。この世にお父さんを悪く言う人が存在するなんて、思いもしなかった。しかも、息子。何やら少しだけ母を養護するような発言までもあった(驚きすぎて詳細は覚えていない)。
しばらく考えるうちに、兄の言うことも一理あると思うようになった。母を我が家の独裁者に君臨させてしまった原因には、父の事なかれ主義が起因しているかもしれない。
父が言えないなら私が言ってやる。20代前半の私は、いつでも臨戦態勢で母の悪行をパトロールしていた。
人の不幸は蜜の味、知り合いの悪口から芸能人の批判まで。母が口にする悪態の数々に対して、私はもっと柔軟なものの考え方をするようにとレクチャーしているつもりだった。しかし、何ひとつ変わらない。
今となっては、自分を愚かに思う。人を変えようだなんて、おこがましい。人の振り見て我が振り直せで、十分なのだ。母はそういう人なのだと受入れることの方が重要だ。
あるとき、父はこう言った。
「ママは、最も人間らしい人間なんだよ。喜怒哀楽をここまで出せる人はなかなかいない。そういう、ママのいいところを見てあげよう」
あるとき、兄はこう言った。
「バカとはさみは使いよう。お母さんって、やり過ぎる節もあるけど、気が利くのも確か。まあ、上手くやるのが一番だよ」
またあるとき、父はこう言った。
「逆らわず、従わず」
父も兄もなんだか怖い。そんな考え方でいいのかとも思うけど、結局これが正解なのかもしれない。兄も私も、結局は父と同じ事なかれ主義に落ち着いた。母にはこれが一番の対応だ。
母について気付いたこともある。母は、私たち3人とは正反対で、友だちがたくさんいる。喧嘩して疎遠になる人も多いが、すぐに新しいコミュニティーに参加できる。気前のいい母は、浅い付き合いならみんなの人気者。それも1つの才能だ。
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
次回は、父が怒った3つのできごとの話