【家族の話】本当の父親は誰?
かつて上野が苦手だった。子どものころの私にとって、上野は危険な場所だったからだ。
年に何度か上野恩賜公園に行った。そして、毎度悲劇は起きた。
上野での我が家の行動ルートは決まっていた。上野駅公園改札口を出て、上野恩賜公園に入る。公園で遊ぶだけの日もあれば、動物園や国立科学博物館に入る日もあった。あちこち散策した後、西郷隆盛像を経由し、不忍池を1周してから中央通りに出る。そして、中央通りを駅方面に進み、広小路口から駅構内へ。
その間に何が私を危険に晒していたか。
私が子どものころの上野は今のようにきれいな街ではなく、東京の繁華街の中では最も戦争の傷跡が残っていたように思う。西郷隆盛像の真下辺りの中央通り路上には、靴磨きの人や戦争で腕や脚を失い物乞いをする人がずらっと並んでいた。
聞こえてくる悲しげなアコーディオンのメロディ。
私は傷痍軍人の横を通る時は、なるべく見ないようにうつむいた。そんな私を見て母は
「ほら、本当のお父さんだよ」
と耳元でささやき、私の背中を突いた。
私は、父の腕にしがみついて、後ろに隠れるので精一杯だった。母の顔をチラリと見ると、母は悪気もなく楽しそうに笑っている。
「いや、あっちの人だったかなあ? ほら、お父さんって言っておいで」
涙を浮かべて抵抗する私に、母は楽しげに執拗に迫ってくる。
(早く終われ、早く終われ)
私は目をつぶり、父にしがみ付きながら、心の中で祈ることしかできなかった。
小学校低学年までは、母のこの行為が怖くて、悲しくて仕方がなかった。しかし、少しずつ疑問が沸いてきた。
どう考えても、ありえない。私は母と顔がそっくりだとよく言われた。こんなに顔が似ているのに、私が母の子でないとは思えない。ならば私は、母と傷痍軍人の娘となる。母こそ挨拶をしに行けばいいのだ。
なぜ、そんなつまらない嘘をつくのだろうか。母は楽しそうだが、何がそんなにおもしろいのだろうか。
私は、あるときしっかりと反論した。
「ちっともおもしろくないから、やめて!」
「あら、なによ。冗談も通じないの? 私だって昔おじいちゃんによく言われたわよ。橋の下から拾ってきた子だってね。そんなの冗談に決まってるじゃない」
「じゃあ、お母さんは言われて笑えたの?」
「笑いはしないわよ。でも、冗談なんだから。イヤだからやめてよ~っていうじゃれ合いがおもしろいんじゃない」
橋の下もイヤだけど、橋の下の方が具体性に欠けるからまだましだ。こっちは、目の前で物乞いしている傷痍軍人を突きつけられているんだ。
そもそも、傷痍軍人にも失礼だ。母は「あの人たちは国からお金を貰ってるのに、同情を引いて募金させようとしてるだけ」と言ってひどくさげすんでいた。
例えそれが事実だとしても、さげすむ上に、子どもを怖がらせるネタに使っていいはずがない。
中学生になると、親子で出かけることもなくなり、上野に行く機会もなくなった。
中学時代、友人とこの手の話で盛り上がったことがある。近所を流れる川の橋の袂には産婦人科があり、多くの友人がその病院で生まれていた。その友人たちは、口を揃えて「親から病院ではなくて、その橋の下で拾ろわれた」と聞いたと言って笑っていた。
また、高校時代の友人は「肉屋で100グラム100円の肉のかたまりだったらしい。3250円で買われた」と笑った。
みんなが笑い話にしていることにも驚いたし、親世代の間では、ポピュラーな冗談だったことにも驚いた。
冗談で片付けていいのだろうか。私の頭が固いのか?親が、子どもを不安がらせる冗談を言ってはいけないと思うのだが……
じゃれ合いやイジりの境界線が分からない人がいる限り、この世からイジメはなくならないとも思う。
自分に子どもが生まれたら、子どもに生まれた日のことを詳しく話してあげようと、私はずっと思っていた。
そして実際に、子どもたちの誕生日には、生まれた日のことを毎年話した。子どもたちは、何度でもうれしそうに聞いていた。
話している私も幸せだった。親にして欲しかったことを私が子どもにすることで、私の心は慰められ癒される。
前の世代からの負の連鎖を断ち切れば、幼いころの傷ついた心は浄化されるのだ。
最後まで読んでくださり
ありがとうございました。
次は、この件に対する父の対応の話