受動と能動
すべてに完璧でバランスのとれた人はいないだろう。そういう意味では、誰でも何かしらの発達障害的傾向要素を持ち合わせている。
発達障害について調べ始めてからというもの「この人のこういうところ、ADHDみたいだな。アスペルガーみたいだな」そんな風に心の中で人を分析するようになった。自分の周りにも、テレビで見る芸能人にも、それらしい雰囲気を持っている人はたくさんいる。そういう私も、子どもの頃のことから思い返してみると、ADHD要素を持ち合わせていたと自己分析している。
- 字を書いていると気持ちが先走って思ったようには書けないときがあった
- 小学3年生まで指しゃぶりしていた
- 周りの友だちより、手先が不器用だった
- 自分の身ひとつのスポーツは得意なのに、球技は苦手(特に大きいボールが苦手)
- 集中力が切れると、おしりがムズムズして座っていられなくなった
- 人の話を聞いているとき、気を抜くと意識が飛ぶ
- 暗算が苦手
- しゃべり過ぎてしまうことがある
- 頭の中がいつも思考でいっぱい
- 変わっているとよく言われる
自分におけるこれらの状態に、小学1年生ころから私は自分で気づいていた。自分の得手不得手がはっきりしていて、音楽(楽器)、図工、家庭科の時間は特に苦痛だった。どうして周りの友だちのようにまんべんなく上手に出来ないのだろうかと、子どもながらに悩んでいた。
努力が必要な私は「問題が起こる→問題解決に向けて、対策を練る→対策を実行する→解決する」というサイクルで行動することを身に着けた。
問題が解決されるとうれしかった。だから問題が起きると、まず解決したときのことを想像した。すると、悩みながらもワクワクするのだった。
また、楽天の三木谷社長が「頭の中では同時に何本もの列車が走っている」と言っているが、私もその感覚がよく分かる。いくつもの事柄を同時進行で考えていることが常で、ものすごく脳が疲れる。頭の中でたくさんの言葉が何重にも行き交っているなんて、自分は多重人格者なのではないかと思ったことさえある。
友だちからは「変わっている子」とよく言われた。どこがどう変わっているのか、あまり自覚はない。けなしているのだろうが、私は不思議と褒め言葉として捉えている。
さて、ミツキと私。生まれ持った素質はどちらも似たようなものだが、決定的に違う点がある。受動的か能動的かの違いだ。
私は、たとえ受ける立場のときでも、その意味を考え、自分に活かせる部分を探そうとしている。
ミツキは、たとえ自分に不利益が降りかかったとしても受け入れてしまう「何でも受け入れちゃう系男子」なのだ。
勉強のときもミツキはいつも受け身だった。問題集の見出しから答えを推測するばかりで、各単元の本質を理解しようとしない。うわべだけ勉強しても、総合的な問題ではどの単元の公式や文法を使ったらよいのか分からなくなる。
勉強でも生活面でも、能動的であると臨機応変に対応できるようになると思う。
人の話もただ聞いているだけでなく、相手が何を伝えたいのか、自分に活かせる部分があるかなど、意識して聞いてみる。
ストレッチや筋トレも、体のどの部分に効いているのか意識する。
スポーツの練習も、試合中のどんな場面の練習なのかを意識する。
やりたくない、つまらないことにも、やる意味を見つけて意識する。
その場しのぎの受け身はもう終わりだ。ミツキは、ミツキの人生の主人公なのだから。
私は、ミツキにやる気に満ちた楽しい人生を送ってもらいたい。
ただそれだけのことが、ミツキには伝わらない。