【家族の話】中学受験記②

 ミナコはつくづく優しい子で、その後も遊べない理由を一切聞いてこなかった。休み時間は遊び、しゃべりながら下校して、塾のない日は遊んだ。ミナコと過ごす時間だけが、唯一リラックスできる時間だった。

 1つ困ったのは私が塾の日のテレビの話で、当時は欽ちゃんの全盛期。『欽ドン』『欽どこ』『週間欽曜日』を観ていないと学校で話には入れなかった。当時はビデオデッキはなかったので観られないのだ。

 みんなが盛り上がる中、観ている雰囲気を醸しだすことに徹していた。今思うと、つまらないことに神経を使っていたと思う。

 新しい塾は、とても楽しかった。前の塾は私の他に男子が1人だけだったが、今度は女子3人(私含め)と男子5人だった。8人ですぐに仲良くなり、塾の前後に公園や工場の跡地のような場所で遊んだ。

 塾に入ってすぐのころ、母に塾の友だちのことを話した。

「女子の1人は同じ学校のNさんだよ。もう1人は違う学校。で、その女子はなんと男女の双子で、男子の方も同じ塾にいるんだよ。それからね……」

 私の話を聞かずに、母は考え事をしている。

「その同じ学校のNさんには気をつけなさい。その子、評判良くないから」

(出た、また私の友だちの批判)

「そうなの? いい子だよ。3人で気が合うし」

 その後も問題なく楽しい日々は続いた。イヤだった塾も遊ぶ時間があれば楽しい。学校の友だちとはまた違う楽しさがあった。おかげで自然と成績も上がっていった。

 小6になってすぐのこと。私が数回連続で塾を休んだあと塾に行くと、教室の空気がとても冷たく感じた。そして、仲が良かったはずの女子2人がヒソヒソと話している。ときおり「誰かさんがさあ、ボソボソボソ

 私は話しかけることができなくなってしまった。そして、一緒に遊んでいた男子5人は、関わらないようにしていることが窺えた。

 2か月間は何も言わずにジッと耐えた。無視されていると母に知られたくなかった。

 そんな日々のせいか、胃の痛みを感じるようになった。初めは気のせいかと思っていたが、そのうち差し込むように痛むようになり、油汗が出ることもあった。

「塾を辞めたい。受験もしたくない」

 母にそう言うと、いきなり母は核心を突いてきた。

「もしかして、Nさんにいじめられているの?」

 私は泣きながら、ただうなずいた。

「やっぱりそうなったか。あの子、評判悪いのよ」

 そういうわけで、あっという間に塾が変わって、中学受験は続行。

 ある日、父が白地に青い模様の缶に入った粉を飲んでいた。

「お父さん、それなに? 」

「おぉたいさんだよ。これのむと胃がスッキリするんだ」

(山の名前みたいなやつ、飲んでみたい)

 誰もいないのを見計らって飲んでみた。爽やかな味で本当に胃がスッキリするような気がした。私は、そのスッキリする白い粉の虜となった。ことあるごとに引出しをそっと開け、サッと流し込んだ。お菓子感覚だった。

「あれ? どうした? 薬なんか飲んで」

 数か月後、父に見つかった。

「どうもなくなるのが早いと思ったら、勝手に飲んでたな?」

「うん、まあ」

「子どもが勝手に飲むもんじゃないぞ。太田胃散ていう胃の薬だ」

「分かった。もう飲まない」

 父が気付いてくれたおかげでやめたが、薬を飲むのが癖になるなんて、つくづく最近の自分はおかしいと思った。

 受入れようと思った中学受験だったが、なかなか思うようにいかない。私は度重なるショックなできごとに、受験から逃れる方法ばかりを考えるようになっていった。

 夏から冬にかけて受験のラストスパートになると思うと気が重かった。

 

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございます。

次回も、中学受験記の続きです。

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【家族の話】中学受験記①

 私が中学受験をしたときの話。

 幼稚園年少で下町の団地に越してきた私は、すぐに団地内のダンス教室に興味を持ち、通うこととなった。レッスンはとても楽しく、友だちもたくさんできた。

 毎年夏休みの始めに発表会があり、舞台に立つことが楽しくて、ライトに照らされることがうれしくて仕方がなかった。

 小5の私は今まで以上に張り切っていた。それまでは同級生とだけ踊っていたが、この年は上級生の中に入れてもらえたのだ。憧れのお姉さんと踊れる喜びと、そのメンバーに選ばれた喜び。

 発表会は無事終了し、上達したとあちこちで誉められた。

「来年からは大人のグループだからがんばってね。休み明けのレッスンでビデオ上映会をやるから、今年の反省もしましょうね」

 帰り際に先生からもそう言われ、私は上機嫌だった。

 発表会の2日後は、家族旅行だった。発表会の興奮がまだ収まらない私は、温泉につかりながらずっと発表会の話を母にしていた。

「でね、来年は大人のグループに入れてもらえるから、次のお稽古のときにビデオを観ながら反省会だって」

「あんた、もう次からダンスには行かないわよ。辞めたから」

「……え? どうして?」

「あんたは、中学受験するんだよ」

「え? やだ、なにそれ? ダンスは辞めたくない!」

「先生には昨日言ったから。だから、ビデオ上映会にもいけないよ」

「やだよー!!!」

「もう月謝払わないんだから、行けないの! うるさい! 終り!」

 母が「終り」と言ったら、本当にもう終り。そう育てられてきた。だから、ただ絶望するしか私にはできなかった。

 翌週から私は、週3日塾に通い始めた。母は、私の知らない間に塾を決めていた。

 塾の先生は女性でとても優しかった。先生は「板書は早く写して、板書以外に先生の話した重要なことも書ける余裕を持つように」と繰り返し言った。黒板の文字は次々消されるので、そのスピード感が学校の授業と違ってとても楽しかった。

 夏休み中はやることが他にないので、塾を楽しいと思い始めていた。しかし、学校が始まって最初の塾の前日、問題が起きた。

「明日は塾だから、友だちと遊びの約束をしてきたらダメよ」

「えー! そうか。久しぶりなのになあ。これからずっとそうなの? イヤだなあ」

「友だちに、塾だから遊べないって言うんじゃないよ」

「え? なんで?」

「だって中学受験して、落ちたら恥ずかしいじゃない」

 それまで私は、そもそも中学受験とは何かさえ分かっていなかった。だから、落ちる可能性があることも知らなかった。逆にいうと、受かったら仲良しの友だちと学校が離れてしまうことすら気付いていなかった。

「お母さん、中学受験って何? 私の友だちは誰も中学受験しないよね? 私はなんでしないといけないの? 受かったら友だちと離ればなれで、落ちたら恥ずかしいなんてどっちもイヤだよ」

「私立のお嬢さん学校に通わせたいからだよ」

「なにそれ。どういう所? 」

「お下げ髪をする決まりのある女子中学校だよ。大学の付属校だから、エスカレーター式に大学まで行ける。高校受験だと英数国の3教科だけど、中学受験だったら2教科で済むよ」

 母の説明の後半部分はまったく理解できず、理解できたのはお下げ髪の規則だけだった。私が三つ編みをする?

「お母さん、ずっと私にお下げ髪は似合わないって言ってきたじゃん。それに、エスカレーター式って何のこと? 私は、みんなと一緒がいい」

「うるさい! もう終り!」

 私は黙った。母が「終り」と言ったら、本当にもう終り。そう育てられてきた。だから、ただ絶望するしか私にはできなかった。

 私はしたくもない中学受験とそれを友だちに話せないことの狭間で苦しむようになった。

 毎日当たり前のように遊んでいたミナコと遊べない。しかも、遊べない理由を言えない。

 ミナコに嘘もつきたくない。「ごめん、今日は遊べないんだ」私はただひたすら謝るだけだった。

 大人になってからミナコにこのときのことを聞いてみると、初めはミナコも突然どうしてという思いで悲しかったそうだ。そして、私の辛そうな表情を見て、深くは聞いてはいけないとも思ったそうだ。

 10月に入ったころ、私に異変が起きた。勉強をしながら左手を握り、指の第二関節の皮を前歯で嚙むようになった。親指以外の4本の第二関節は皮がえぐれ、赤い皮膚がむき出しになった。痛いのに嚙むのをやめられない。ついには血も滲むようになった。

 家でも学校でも塾でも、勉強中は常に嚙んでいた。

「あなたなんてことをしているの!!」

 そう大声で言い、私の左手首を握ったのは塾の先生だった。

「血だらけじゃないの! あなた、もしかして受験したくないの? 」

 初めて私の気持ちを分かってくれる人が現れた。私は涙で言葉にならず、ただ何度もうなずいた。

 先生は私が落ち着くのを待ってから、今までの経緯をすべて聞いてくれた。

「あなたは中学受験にはむいていないかもしれない。先生からお母さんに話してあげる」

 私は、これで元の生活に戻れると思った。

 しかし、現実はそんなに甘くなかった。新しい塾に移っただけの話だ。

「あの先生、なんなのかしら? 何だかヘンな本まで渡されたわ。読んでみろって! あんたにあげるから読みなさい! 」

 初め私は、先生が私を励ますための本をくれたのだと思った。ページを開き、3行読んで本を投げ捨てた。

 その本は、先生が母に宛てた本だった。中学受験を苦に自殺した子どもたちの話。

 私も死ぬの? そんなのイヤだ!

 指を嚙んでる場合じゃない!

 私はもっと強くならなければいけない! 

 誰がなんと言おうと私は中学受験させられるのだ。誰も母の方針を変えられない。誰も私を救えない。

 このままただ絶望しているだけでは何も始まらない。今の私にできることは何だろう。

 そうだ、一旦中学受験を受入れよう。中学受験がなんなのかよく分からないけれど、この状況を取りあえず受入れよう。それで様子をみるのだ。何かが変わるかもしれない。

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

次回も、中学受験記の続きです。

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【家族の話】ひと休み

 大好きな父とのエピソードを忘れないようにと書き始めた『家族の話』。

 私と父とのエピソードを中心に書いていきたかったのだが、話の方向性がおかしくなってしまった。父より、母の出番の方が多くなるのだ。

 母のエピソードを書くとなると、悪口ばかりの暴露話みたいになってしまう。私としては、吐き出すことでスッキリする部分もあるのだが、読む側からしたら気分を害されることもあるかもしれない。

 ただ、私と父のエピソードを書くには、母の存在があまりにも大きく、書かずには話が進まないのだ。

 

 私と父は親子であり、同士だった。

 母から互いを守り合う同士。

 

 1つ大事なのは、私は母を恨んではいないということ。母を好きとは言えない。苦手寄りだ。けれども、反面教師として、私に多くの学びを与えてくれたことも確か。

 私はそのことを深く感謝している。

 比較的、逆境に強いタイプの私は、目の前に困難が立ちはだかったときの方が、俄然やる気が出る。だから、自分の人生をふり返えると、前向きに生きてきたなと自分を誉めたくなる。

 この先も暗くなるような話はあるが、そのエピソードにより、私が何を学んだかも書いていきたいと思っている。

 『渡る世間は鬼ばかり』のように上手くはいかないだろうが、ちょっとでも楽しんでもらえる部分もあればうれしい。

 

読んでくださり

ありがとうございます。

 

次回は私の中学受験の話

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【家族の話】禁断の窓拭き

 父の人となりをもう少し詳しく説明しておこうと思う。

 まずは見た目。158㎝と小柄だが細マッチョ。

 顔は20代の写真では藤井フミヤ風だったが、30代からあれよあれよという間に髪が薄くなり、若いころの面影はなくなった。でも、元藤井フミヤ風なのだから、髪が薄かろうと私的にはイケメン寄りと思っている。

 母はお得意の冗談というやつで「おハゲちゃん」と言って父の頭をなでた。

 父はと言うと「髪が乱れるだろ」と言って、笑いながら母の手を払う。

 それに対して母が「乱れる髪なんてないじゃない!ガハハハ」となる。

 父の神対応ぶりに感服だ。ちなみに、母には冗談は通じないので、誰も母をイジることはない。

 性格はおとなしく、基本1人でいることを好んだ。だから、父の友だちの名前を聞いたことがない。聞いたことがあるのは、会社の同僚の名前くらいだ。人付き合いが悪くて嫌われているということは一切ない。父は人当たりがいいので、どこに行っても人に好かれるタイプだ。ただ、その場以上の付き合いをしないだけだ。

 釣りをしたり、散歩(運動)をしたり、山菜を採ったり、日曜大工をしたり、日曜大工の工具を買いに行ったり。1人で過ごす時間を大切にして楽しんでいた。

 友だちと深く付き合わない代わりに、父は家族を心から大切にした。父は言葉には出さないが、家族のためだけを思って生きている人だった。

 日曜大工をするくらいなので、父はとても手先が器用。母と私は、生活の中で欲しいものがあると、まず父に相談した。

「この細い隙間に3段の棚」「6畳間を2部屋に分けたい」

「床を10㎝底上げして欲しい」

「コンセントを隠して、その上に台も欲しい」

 父に頼むと、たった一言「はいよ」と言って作業が始まり、あっという間に希望通り、いやそれ以上の品物が出来上がった。

 父の凄さは、私がニュアンスでしか伝えられない場合でも、私の理想形に作り上げてしまうところだった。

 それから、父は運動神経がとてもいい。足が速くて、走る姿が格好良かった。また、海水浴では、私たちが浜辺で食事をし始めると1人でズンズン海に入り、少し沖の波と波の隙間をクロールで横切って泳いだ。大抵の人は浮き輪でプカプカ浮いているだけなのに、プールのようにクロールで泳ぐ父の姿を眩しく見ていた。

 器用であり運動神経がいい父、そして家族の要望に応えたい父だからこそのエピソードがある。

 母はとてもきれい好きだ。センスはないので、素敵な部屋ではなかったが、埃はなく、窓もきれいだった。

 我が家は団地の角部屋で、東の寝室2部屋と南のリビングに窓があった。寝室の1つはベランダがあるので、母が内も外も拭いた。もう1つの寝室は、母が内側を拭き、外側は父が2枚の窓を交差させて少しずつずらしながらなんとか全面きれいに拭けた。

 問題はリビングの窓だった。リビングの窓は他の部屋と同様にガラスは2枚分だが、開閉できるのは左側のガラスだけ。右側ははめ殺し窓だった。

「ああ、せっかくの南の窓が汚れていると気分が台無し」

 暖かい季節がやってくると母は必ずそう言った。父に窓の汚れをなんとかしろと言うのだ。

 私が小学生のとき、母は恐ろしい提案を父にした。

「ロープを体に巻いて外に出て拭くことはできないかしら?」

 窓の外には30㎝程コンクリートがせり出していて、母はそれを足場にすれば大丈夫だと言うのだ。

 さすがに父も初めは断った。

「そんな言うほど汚れてないよ」

「いいや、汚い。あの窓を見る度に嫌な気分になる」

 母は引かなかった。

 ついに、禁断の窓拭きが決行されたのだ。左側の窓を右側にスライドさせて全開し、窓から一直線の場所にある太い柱と父の腰をロープで繋いだ。もし足を滑らせたら、こんなロープ何の役にも立たないことは、子どもでも分かる。落ちたら完全にグッチャグチャの即死の高さなのだ。それをいい大人がやらせようとしている。私は見ていられなかった。

 結果は無事に成功した。それにより、毎年父は渋り、私が止めるも毎年決行。5年ほど続くことになる。

 そしてあるとき、急に過ちに気付いた母により、禁断の窓拭きは記憶の奥に封印された。

 

最期まで読んでくださり

ありがとうございます。

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【家族の話】父が怒った日②

 まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をする父。そんな穏やかで優しい父が怒るのを見たのはたったの3回。

 そのうち1回は、母に対してだ。

 

 父が外資系の会社から日本の大手企業のドライバーへ転職するのを機に、西麻布のアパートから下町の巨大な団地へと引っ越しをした。私が幼稚園年少のときのことだ。

 私はやっと物心が付いてきたころで、この時期から連続性のある記憶が増え始める。

 団地には、家族4人だけで暮らした。西麻布での記憶はほとんどないので、祖母や叔父といつまで暮らしていたのか、私には分からない。

 まったく記憶のない私は、祖母や叔父はどんな人なのか知りたかった。しかし、日常の会話から、父の親族の話はタブーだと幼い私でも分かっていたので、決して口に出すことはなかった。

 母はどんなに機嫌良くしていても、父の親族を連想させるキーワードが出るだけで、猛烈に怒りまくった。それに対して父は、一切言い返さない。

 祖母と叔父と一緒に暮らしているときに何があったのかは、私は知らない。父は、どっち付かずの曖昧な態度だったのだろう。母は全面的に自分の味方をして欲しかったに違いない。母の辛い思いは想像が付く。

 けれども、もう、別々に暮らしているのだ。付き合いも基本的にはしていない。家族4人の中で母は独裁者としてすべて思い通りに暮らせているのだ。過去を掘り返して、目の前で事件が起きているかのように怒り狂う必要はあるのだろうか。

 疑問も残る。母に落ち度はないのか。好かれる嫁になる努力はしたか。それは独りよがりの努力ではなかったか。

 母の性格を知っているだけに、父の親族が一方的に悪いとは思えないのだ。

 こんな感じで、我が家では数か月に一度の割合で誰かしらが地雷を踏んでは、母による父の親族批判が勃発した。

 

 私が小5の5月31日の朝、またもや批判勃発。朝から母が父に何やらごちゃごちゃ文句を言っているなとは感じていたが、私は自室でダラダラ過ごしていた。

ガシャーン!!!

 ガラスの割れる大きな音がして、私は慌ててリビングに行った。キッチンの奥まったところに食器棚があり、そのガラス戸が割れていた。母は食器棚の前に顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。母の方を向いている父の表情は見えない。

 ついに、この日が来た!!!

 父が母に対して怒りを表し、食器棚のガラス戸を割ったのだ。

 母がはらはらと涙を流し、床にしゃがみ込んだ記憶はあるが、その後父がどうしたかの記憶はない。いつの間にか、父はいなくなっていた。

 母が泣いている間、私はガラスを無言で片付けた。

「日曜日だし、今日どこか2人で行こうか」と母。

「……うん」断るわけにはいかない。

 連れて行かれた場所は、また上野恩賜公園。公園では特に何をするわけでもなく、大噴水のある大きな池のベンチにただ黙って座っていた。慰めた方がいいかなとも思ったが、慰める気持ちが一切湧いてこない。仕方ないのでただ五月晴れの美しい空を眺めた。

 この日の母は、傷痍軍人を見ても何も言わなかった。

 我が家では、この日の話題は誰も口にしない。母でさえ、ガラスを破損した父を非難することはなかった。

 

 それから20年ほど後、兄が事の真相を教えてくれた。

「あのころお父さんは、夜釣りにはまっていて、GWも全部夜釣りに行ったんだ。で、あの日お母さんはどこかに行きたかったんだろうな。でも、お父さんは朝方に帰ってきて。それで揉めたんだ。揉めついでにお決まりの親族批判が始まって、お父さんがキレたんだ。だから、お父さんも悪いんだぞ。そもそも、親族批判だって元はと言えば、お父さんがお母さんをもっと守らないのがいけないんだし。おまえはお父さんの味方ばかりしてるけどな」

 事の発端は父が悪いにしても、夜釣りから親族批判にすり替える母も悪い。それに、子どもが小さいなら考えものだけど、もう小5と中2なのだから、夜釣りくらい行っていいと思うのだが……

 母は私に説教するときも無限ループ説教をする。無限ループ説教とは、説教の内容がいつの間にかすり替えられて、何年前の出来事までも引き合いに出される説教のこと。

 母は何かにかこつけては、過去の気に入らないこととすり替えて、無限に怒るのだ。

 母の様々な怒りは、甘えであり、わがままだ。

 父は母に償いをしようと努力をし続けていた。表現は悪いが、母の言いなりだった。何でも母の望むことを快く二つ返事でやった。それがますます母の父へのわがままを増長させたのかもしれない。

 

 父が怒ったのは結局この三回だけだった。私と兄は、もう父に怒られるのはこりごりで、それなりに気をつけていた。母はそんなことお構いなしで父に辛辣な発言をするので、傍から見ていてヒヤヒヤするが、父は怒るそぶりもなかった。

 それが、母に対する懺悔の気持ちからなのか、諦めから来るものなのかは、分からず終いだ。

 

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【家族の話】父が怒った日②

 まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をする父。そんな穏やかで優しい父が怒るのを見たのはたったの3回。

 今回は兄に対してだ。

 どこの家でも起こる、兄妹間でのテレビのチャンネル争い。私と兄も頻繁に観たい番組をめぐって喧嘩になった。

 兄が小3、私が幼稚園年長くらいだったと思う。チャンネル争いが絶えないので、兄と私で1日毎にチャンネル権を交代する取り決めとなった。

 何日か平穏に過ぎていったある日、私が取り決めを破った。リモコンなどない時代、兄がテレビ画面右横に付いているチャンネルの取っ手をガチャガチャと回しているとき、画面に私の興味を引く映像が映った。

 取っ手を回し続ける兄。私はテレビに駆け寄り、兄の手を払いのけようとした。テレビ前で小競り合い勃発。

「なんでだよ。今日はお兄ちゃんの日だろ」

「でも、観たいのぉ」

「そんなわがまま通じないぞ」

「いやだ、観る」

 ギャアギャア、ワーワー、小競り合いがどんどん大きくなっていった。

 そのとき、アッと思ったときには、もう兄が吹っ飛んでいた。私は何が何だか分からなかった。兄は床に倒れて、唖然としている。その後、泣きながら頬を押さえた。

(お父さんがお兄ちゃんを殴ったんだ。お父さんが殴るなんて信じられない。凄く痛そうだ。私のせいで、お兄ちゃんがお父さんに殴られた。どうしよう)

 その後のことは、ハッキリ覚えていない。

 一瞬の出来事だったが、父のことは絶対に怒らせてはいけないと、深く私の脳裏に刻まれた。

 

 月日は流れ、ミツキとリオが生まれた。ミツキとリオも同じようにチャンネル争いをする。けれども、小競り合いになることはない。どうしてかというと、話し合いで解決するように常に、私が促しているからだ。

 ミツキとリオもチャンネル権は交代制という大まかなルールはある。わがままはいけない。けれども、ルールにがんじがらめになる必要もない。わがままを通したければ、プレゼンと交渉を駆使して相手を納得させればいい。

 どうしてその番組が観たいのか。どれくらいおもしろい番組なのか。みんなにとってのメリットは何か。などのプレゼン。

 自分も相手もWin-Winの関係になる条件の提示。予めの根回し。などの交渉。

 もちろん、子どもには難しい。だから、私が間に入り、質問形式で答えを引き出す。

 回りくどくて時間がかかるけれど、じっくり話し合えば喧嘩になることなく満場一致で番組を楽しむことが出来た。

 生活を共にしていれば、プレゼンと交渉は、生活のあらゆる場面で必要となる。現在2人は17歳と13歳で、以前のように揉めることはないが、まだまだ口調など精進が必要だ。

 あの日の父も、いきなり兄を殴らずに話し合いの場を持たせた方が良かったと思う。けれども、父を擁護したい気持ちの方もある。

 父は、3人兄弟の長男だった。母親は目が不自由で、父親とは離婚した状況の中で、一家の大黒柱として我慢の多い人生だったと思う。長男として妹と弟に譲ることが多かったはずだ。そして、その自分の経験を美徳として子育てをしていたとしたら、兄が妹にチャンネルを譲らない状況を許せないと思った可能性はある。もちろん、暴力のいいわけにはならないが。

 ちなみに、私が父を怒らせた「ふきの煮物事件」も、食べ物に苦労した父からしたら、とんでもなく許せない行為だったのだろう。

 

 父の一周忌法要の日、母と兄夫婦、そして私の家族で食事をした。そのとき、チャンネル争い事件の話になった。

「あのとき、お父さんは執拗にオレを殴ったんだ。オレが倒れても追い被さって何度も何度も。オレは顔が腫れ上がって、鼻血が出た」

 それはさすがにないと思った。兄は恐怖、衝撃、怒りにより、事実以上の体験として記憶してしまったのだろう。私もハッキリとは覚えていないが、ほんの一瞬の出来事であり、そこまで殴っていた記憶はない。

「オレ、高校のとき、空手部に入っただろ。あれって、今度何かあったらやり返せるように入部したんだ」

 やはり、暴力からは暴力しか生まれない。

 ちなみに、兄は空手部を1年で退部している。理由は、1年時は空手の型練習が主だったが、2年以降は実践が増えて痛いからと言う理由だった。そのくせ、型練習ばかりの時期は「型ばかりではつまらない」と言って、痛がる私を相手に憂さを晴らしていた。

 己の欲せざるところは人に施すことなかれ

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

次回も父が怒ったことの話

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【家族の話】父が怒った日①

 父は、まるで歌を歌うように語尾を伸ばし、おどけたしゃべり方をした。

 そんないつも穏やかで優しい父が怒ったところを、私は3回だけ見たことがある。

 そのうちの1回は、私に対してだ。

 

 幼少時代に千葉県の佐原に疎開していた父は、きのこや山菜について詳しかった。おばあさんに連れられて、山へ食料調達をしに行っていたらしい。

 その名残で父は大人になっても散歩がてら山菜採りをした。おかげで我が家の食卓にはスーパーで売っていない食材が豊富に並んだ。

 春には私と母も父と一緒に土手に行き、ヨモギタンポポなどを摘んだ。タンポポの天ぷらは、苦っぽろいがおいしかった。ヨモギは、餅にしても天ぷらにしても最高の食材だ。

 父は仕事の都合で地方に行くと、空いた時間に山へ入ってはふききのこを採ってきた。

 山菜は安心して食べられるのだが、きのこはどうしても不安が付きまとう。父は自信をもって薦めてくるが、受入れがたかった。父の食べる姿を見て、安全を確認してから私たちも恐る恐る口にした。事故を起こさず、おいしくいただくことができてよかったとつくづく思う。

 土手へ家族で野草を採りに行くと、大抵私がすぐに飽きるので、ほどよい量を採って終了となる。ところが、父が1人で山に入るときは、黙々と採り続けるので大量に採ってくる。この大量のふきが母と私の悩みの種。

 母は、ふきの下処理に悩まされた。もちろん父も一緒に下処理をするのだが、とにかく大量なのだ。塩をなじませ、茹でたあと、ひたすら無言で皮を剥き続ける。剥いても、剥いても終わらない。

「パパ、なんでこんなに採ってくるのよ! 」

 母は毎回激怒りだった。

 下処理が終わったら5センチ程に切り揃え、やっと調理にかかる。そして、おでん用の大きな鍋二つ分のふきの煮物が出来上がる。

 母は、家にあるタッパーを全部出し、均等に詰め、ご近所さんに配り歩く。これでやっと鍋1つ半が消費されたが、まだ半分は残っている。

 大きな鍋に半分入っているふきの煮物を家族4人で消費しなくてはいけないのだ。これに私は悩まされた。

 私が唯一嫌いな食べ物。それが、ふきの煮物だった。見た目も食感も謎の苦味もすべてイヤ。

 それが朝夕と毎度5本ずつ食卓に上がった。ちなみに我が家の朝食は、パン。トースト、ベーコンエッグ、サラダ、フルーツ、紅茶、そして小付にふきの煮物5本。

 これが毎春2週間続く。晩酌の酒のあてでは消費しきれないので、全員参加。連帯責任。

 幼稚園生や小学生がふきの煮物を好んで食べるわけがない。ずっと文句を言いたかったが、食事にケチを付けるのは御法度だった。採ってきてくれた人、作ってくれた人、食材その物への感謝。子どもながらに重々承知していた。だから、ひたすらぐっと堪えて我慢していた。

 だが、高校1年生のとき、ついに爆発してしまったのだ。高校生になり、お弁当の生活となった。お弁当の蓋を開けて絶句。お弁当にまで入っていた。しかも、母は、ふきを白米の上に乗せていた。白米までも、あのイヤな味に漬っていた。せめて、アルミケースに入れて端の方に入れてくれればよかったのに。

「もう、ふきは食べたくない」

 夕食のふき5本を見た途端にうんざりした。

「あら、なによ。おいしいじゃない」

「子どもにはおいしくない」

「あら、もう大人じゃない」

 こういうときだけ大人扱いしないでほしい。

「せめて、お弁当は勘弁してよ」

「早く食べないと、悪くなっちゃうから」

「じゃあ、せめて、白米の上には乗せないで欲しいよ。お母さん、甘い煮豆も白米に乗せるんだもん」

「なに? あんた偉そうに。明日から自分でお弁当詰めなさい!!」

 バシン!!!

 大きな音が食卓に響き渡った。全員一斉に音の方向を見る。視線の先には、お誕生日席に座る父がいた。それは、父が箸を食卓に叩き付けて置いた音だった。父は一言も言葉を発しなかった。でも、全身からメラメラと怒りの炎が上がっている。

 私は固まった。普段まったく怒らない父が怒った恐怖に動くことが出来なかった。

 恐怖の中、一瞬で感謝と配慮が足りなかったと、反省した。

「はい。文句言わずに食べます。明日からは自分でお弁当詰めます。ごめんなさい」

 今思い出しても、恐ろしい。そして、ふきの煮物は今でも苦手だ。

 

最後まで読んでいただき

ありがとうございます。

次回も父が怒ったことの話。

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