【家族の話】中学受験記①

 私が中学受験をしたときの話。

 幼稚園年少で下町の団地に越してきた私は、すぐに団地内のダンス教室に興味を持ち、通うこととなった。レッスンはとても楽しく、友だちもたくさんできた。

 毎年夏休みの始めに発表会があり、舞台に立つことが楽しくて、ライトに照らされることがうれしくて仕方がなかった。

 小5の私は今まで以上に張り切っていた。それまでは同級生とだけ踊っていたが、この年は上級生の中に入れてもらえたのだ。憧れのお姉さんと踊れる喜びと、そのメンバーに選ばれた喜び。

 発表会は無事終了し、上達したとあちこちで誉められた。

「来年からは大人のグループだからがんばってね。休み明けのレッスンでビデオ上映会をやるから、今年の反省もしましょうね」

 帰り際に先生からもそう言われ、私は上機嫌だった。

 発表会の2日後は、家族旅行だった。発表会の興奮がまだ収まらない私は、温泉につかりながらずっと発表会の話を母にしていた。

「でね、来年は大人のグループに入れてもらえるから、次のお稽古のときにビデオを観ながら反省会だって」

「あんた、もう次からダンスには行かないわよ。辞めたから」

「……え? どうして?」

「あんたは、中学受験するんだよ」

「え? やだ、なにそれ? ダンスは辞めたくない!」

「先生には昨日言ったから。だから、ビデオ上映会にもいけないよ」

「やだよー!!!」

「もう月謝払わないんだから、行けないの! うるさい! 終り!」

 母が「終り」と言ったら、本当にもう終り。そう育てられてきた。だから、ただ絶望するしか私にはできなかった。

 翌週から私は、週3日塾に通い始めた。母は、私の知らない間に塾を決めていた。

 塾の先生は女性でとても優しかった。先生は「板書は早く写して、板書以外に先生の話した重要なことも書ける余裕を持つように」と繰り返し言った。黒板の文字は次々消されるので、そのスピード感が学校の授業と違ってとても楽しかった。

 夏休み中はやることが他にないので、塾を楽しいと思い始めていた。しかし、学校が始まって最初の塾の前日、問題が起きた。

「明日は塾だから、友だちと遊びの約束をしてきたらダメよ」

「えー! そうか。久しぶりなのになあ。これからずっとそうなの? イヤだなあ」

「友だちに、塾だから遊べないって言うんじゃないよ」

「え? なんで?」

「だって中学受験して、落ちたら恥ずかしいじゃない」

 それまで私は、そもそも中学受験とは何かさえ分かっていなかった。だから、落ちる可能性があることも知らなかった。逆にいうと、受かったら仲良しの友だちと学校が離れてしまうことすら気付いていなかった。

「お母さん、中学受験って何? 私の友だちは誰も中学受験しないよね? 私はなんでしないといけないの? 受かったら友だちと離ればなれで、落ちたら恥ずかしいなんてどっちもイヤだよ」

「私立のお嬢さん学校に通わせたいからだよ」

「なにそれ。どういう所? 」

「お下げ髪をする決まりのある女子中学校だよ。大学の付属校だから、エスカレーター式に大学まで行ける。高校受験だと英数国の3教科だけど、中学受験だったら2教科で済むよ」

 母の説明の後半部分はまったく理解できず、理解できたのはお下げ髪の規則だけだった。私が三つ編みをする?

「お母さん、ずっと私にお下げ髪は似合わないって言ってきたじゃん。それに、エスカレーター式って何のこと? 私は、みんなと一緒がいい」

「うるさい! もう終り!」

 私は黙った。母が「終り」と言ったら、本当にもう終り。そう育てられてきた。だから、ただ絶望するしか私にはできなかった。

 私はしたくもない中学受験とそれを友だちに話せないことの狭間で苦しむようになった。

 毎日当たり前のように遊んでいたミナコと遊べない。しかも、遊べない理由を言えない。

 ミナコに嘘もつきたくない。「ごめん、今日は遊べないんだ」私はただひたすら謝るだけだった。

 大人になってからミナコにこのときのことを聞いてみると、初めはミナコも突然どうしてという思いで悲しかったそうだ。そして、私の辛そうな表情を見て、深くは聞いてはいけないとも思ったそうだ。

 10月に入ったころ、私に異変が起きた。勉強をしながら左手を握り、指の第二関節の皮を前歯で嚙むようになった。親指以外の4本の第二関節は皮がえぐれ、赤い皮膚がむき出しになった。痛いのに嚙むのをやめられない。ついには血も滲むようになった。

 家でも学校でも塾でも、勉強中は常に嚙んでいた。

「あなたなんてことをしているの!!」

 そう大声で言い、私の左手首を握ったのは塾の先生だった。

「血だらけじゃないの! あなた、もしかして受験したくないの? 」

 初めて私の気持ちを分かってくれる人が現れた。私は涙で言葉にならず、ただ何度もうなずいた。

 先生は私が落ち着くのを待ってから、今までの経緯をすべて聞いてくれた。

「あなたは中学受験にはむいていないかもしれない。先生からお母さんに話してあげる」

 私は、これで元の生活に戻れると思った。

 しかし、現実はそんなに甘くなかった。新しい塾に移っただけの話だ。

「あの先生、なんなのかしら? 何だかヘンな本まで渡されたわ。読んでみろって! あんたにあげるから読みなさい! 」

 初め私は、先生が私を励ますための本をくれたのだと思った。ページを開き、3行読んで本を投げ捨てた。

 その本は、先生が母に宛てた本だった。中学受験を苦に自殺した子どもたちの話。

 私も死ぬの? そんなのイヤだ!

 指を嚙んでる場合じゃない!

 私はもっと強くならなければいけない! 

 誰がなんと言おうと私は中学受験させられるのだ。誰も母の方針を変えられない。誰も私を救えない。

 このままただ絶望しているだけでは何も始まらない。今の私にできることは何だろう。

 そうだ、一旦中学受験を受入れよう。中学受験がなんなのかよく分からないけれど、この状況を取りあえず受入れよう。それで様子をみるのだ。何かが変わるかもしれない。

 

最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

次回も、中学受験記の続きです。

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