いざ病院へ

 12月上旬、中学校の三者面談があった。持田先生の生活面での指摘にミツキが無駄なしゃべりを入れるので、前回同様45分コースになってしまった。

「今日の面談でのミツキを見て、やっぱり検査を受けてみてはどうかなと思ったの。おしゃべりが自分中心的で、周りが見えていない感じだったから。ミツキはどう感じた?」

 ミツキは何も答えない。

「今日の面談でのことだけを言うんじゃなくてね。今度、英語の復習のために塾の冬期講習を受けることになったよね? お金のことミツキに言うのは気が引けるけど、月謝とは別に冬期講習だけで13万円払うの。冬期講習の成果を出すためにも、集中力とかの改善に向けての行動って必要なんじゃないかな」

「分かったよ」うつむいたまま、ミツキは渋々頷いた。

 気が変わらないうちにと思い、翌日部活終わりのミツキを連れて校医の木下医院を訪れた。受付で小児神経科への紹介状が欲しい旨を伝えると、看護士が出てきて「養護の宮本先生から話を聞いています」と言った。宮本先生が、話しを通してくれていたことを、とてもありがたく思った。

 診察終了間際だからか、待合室には他に患者は1人もいなかった。ミツキは緊張しているのか一言も発せず、ソファーに浅く座り、息を止めているかのようにまったく動かなかった。名前を呼ばれて診察室に入ると、恰幅の良い優しそうな男の先生がいた。

「小児神経科を受診したいんだね。どうしてそう思ったの?」

 先生は、穏やかな声でミツキに聞いた。

「ぼくは、はしゃぎすぎるとしゃべりが止まらなくなるんです。周りの人に迷惑かけちゃうから、何とかしたいと思って」

  自分の問題点として言葉にするというのは辛かったに違いない。辛い気持ちを抑えて答えたミツキを抱きしめてあげたかった。

 12月中旬、学校を休んで小児神経科のある大きな病院へ行った。初日は問診だけかと思いきや、心電図・採尿・採血・脳のMRI・脳波の検査をした。1日がかりだった。

 ミツキの検査中、私は担当医の問診を受けた。小児科医というと、木下医院の先生のように穏やかに話す優しい人をイメージしていた。ところが、この医長である年配の担当医は、事務的で横柄な態度だった。

「なんで受診しようと思ったの?」

「学校での態度や成績に不安な点があって、学校で発達障害の検査を勧められました」

「お母さん、発達障害ってどういうことだか知ってるの?」

 どういうことと聞かれると困ってしまう。

「得手不得手のバランスが悪いような状態のことでしょうか?」

 あまりの威圧感にしどろもどろになる。

「は?  何言ってんの? 分かってないじゃない」

発達障害には、自閉症スペクトラム障害注意欠陥多動性障害学習障害っていう3つのタイプがあるんだよ」

「はい」

 私の相槌のあと、説明が続くかと思いきや、これにて終了だった。たったこれだけのことを言うのに、あんなに息巻いていたのかと不愉快に感じた。

「今日は体の検査をしたから、後日知能検査を受けてくださいね。その結果で、薬を出すかどうか決めるからね」

「治療方法とは、薬の服用だけですか?療育とかはないですか?」

「ここは病院なんだから、薬を出すだけ」

「薬の効果は高いのでしょうか?」

「そんなのやってみなきゃ分からないよ」

 病院イコール投薬。その通りなのかもしれないが、気が進まなかった。

 私は重い気持ちで病院を後にした。今後もこの医師と関わるのかと思うと気が重かった。

 

 1週間後は、山崎先生のカウンセリングの予約日だった。病院で担当医とのやり取りを山崎先生に話した。

「不安な気持ちで病院に行っているのに、それは辛かったですね。でもね、医者の肩を持つわけじゃないけどね、小児神経科の先生になりたい医者って少ないんですよ。みんななりたがらない。でも、患者は増える一方だから、事務的な応対になるのかな。それから、患者さんは、病院だからって治ることを前提に来るから、予防線を張っているんだと思うんですよ。病院で出来ることは薬を出すことだけ。薬もその人に合う合わないがあって、はっきりと明言できないというわけです」

 納得出来るような出来ないような、複雑な心境だった。

 特効薬だと言い切れない薬を服用するのは、どうも気が進まなかった。知能検査の結果が出るまでに方向性を考えておかなければいけない。

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トリックスター

 ミツキが小学5年生のお正月のこと。家族で私の実家に年始の挨拶に行った。
 この日私は、内心緊張していた。夏に実母と大喧嘩をし、会うのは4か月ぶりだったからだ。母の理不尽な言動に耐えかねた私の、一生父にも会えないことを覚悟の大喧嘩だった。母は我が家の独裁者なので、私が謝らない限りは一生このままと思っていたが、初めて母の方から折れてきた。「子(孫)はかすがい」ということだろうか。思わぬ事態に複雑な心境だったが、意を決して実家へ向かった。

 玄関の戸を開けるなり、子どもたちは元気に新年の挨拶をして部屋に入っていった。続いて夫が挨拶をし、次は私の番だった。

 そのとき、奥の風呂場からミツキが母を呼んだ。

「ねえ、ばあば。お風呂の戸の鍵が閉まって開かなくなっちゃった」

 洗面所に手を洗いに行ったミツキが、慌てた素振りで走ってきた。

「お風呂の戸の鍵?そんなのあったかな?」

 風呂場の戸は折り戸になっており、鍵は内側についていた。折り戸の内側の折れ目部分に小さなつまみがあり、そのつまみを下におろすと戸が折れなくなり、ドアが開かなくなる仕組みだった。
 戸の鍵は主に内側からの施錠用で、戸の外側はつまみとは言えないほどの浅い突起だった。その浅い突起は戸の高い位置にあった。今までは気付くことのなかった突起に、身長の伸びたミツキの目が留まり、好奇心で下におろしてしまったのだ。普段使われていない鍵は錆び付いていて、上がらなくなってしまった。

「お正月からお風呂に入れないなんて。工務店もお休みだよ」

 これは大変だと、家族総出で入れ替わり突起を押し上げようとしたが、工具を使ってもびくともしない。30分が経過し、諦めムードが漂い始めた。これで最後という心持ちで軽く押し上げると、カチャっと小さな音を立てて突起が上がった。

「あ、なんか急に開いた」

 私が振り向くと全員が歓声を上げ、母は拍手をしながら小躍りした。

「まったく、あんたたちはお騒がせ一家だよ。さあ、ひと仕事したらお腹がすいたでしょう」

 このハプニングのおかげで、4か月間のわだかまりが一気に消え去った。

 これは、山崎先生からトリックスターという言葉を聞いて、初めに思い出したエピソードだ。ミツキの周りではこの手の出来事がよく起きるが、これがトリックスターと言われた所以なのだろうか。

 トリックスターとは、どんなものなのか検索してみた。

策略や詐術を駆使して活躍するいたずら者がヒーローとして登場する神話や民話は世界各地にみられる。そのような登場人物をトリックスターという。
トリックスターは、策略を用いる狡猾さ・賢さを賞賛される一方、欲望を制御できずに失敗する愚かさ・滑稽さを笑われる者であり、また人間に火や文明をもたらす文化英雄的な神であると同時に、単なるいたずら好きの反社会的な破壊者でもある。
そこでは、善なる文化英雄と悪しき破壊者、あるいは賢者と愚者という、法や秩序からみれば一貫性を欠いた矛盾する役割が、一主人公の属性として語られる。

(世界大百科事典 第2版)

 プロメテウスは『善なる文化英雄と悪しき破壊者』としてのトリックスター。では、グリム童話の方はどうだろうか。ガラスビンの中の悪魔は『愚者』のようだし、木こりの息子は『賢者』のようだ。この場合、どちらがトリックスターなのだろうか。

 トリックスターの物語は世界中に存在している。分かり易いものとして、日本では『吉四六さん』、中国では『孫悟空』がある。

 吉四六さんといえば、小学校の図書館で一休さんの隣に並べられていて、私もよく借りて読んだ。知恵者でひょうきんな男の吉四六の活躍する笑話だ。吉四六さんは、賢者と愚者の両面を持っている。

 孫悟空は、石から生まれた孫悟空が西天へお経を取りにいく三蔵法師のおともをする。旅先で数々の問題に巻き込まれるたびに、孫悟空が滅茶苦茶な行動をとり、周囲を翻弄させるが、最後はその土地のために役立ち、自信も成長しながら旅を続ける物語。まさに、悪しき破壊者であり、善なる文化英雄だ。

 正と悪だけの物語よりも、トリックスター的存在の人が登場する物語は、面白みを増す。

 これをミツキに置き換えてみると、山崎先生の言う通りであると私も思う。普段のなんでもない生活の中でも、それを感じることが多い。私がこうしてミツキのことを書くのも、話の種に尽きない男だからだ。

 例えば、リオのことを書こうと思っても、話の種にはならない。リオは、かわいくて、優しくて、性格が良くて、運動神経が良くて、スタイルが良くて、癒しのパワーを持っていて、愛おしい。リオのことを思うだけで、胸のあたりがほんわり温かく感じて『私の心はここにあるのだ』と心の位置を実感できるほどに愛おしい。だが、話の種にはならない。

 一方、ミツキは一筋縄ではいかないことばかりで、私の心をかき乱す。だが、この一筋縄でいかないところがいいのだ。

①壁にぶち当たる

②本やネット検索で解決法を探す

③解決法を実行する

④解決する。

 私は、この繰り返しの行程にワクワクする。ミツキがいなければ、このワクワク感は経験できないのだ。ミツキの成長とともに、私自身の成長も感じている。人は「儘ならないことを経験すると成長する」と聞いたことがあるが、正にそれだ。

 山崎先生の言う「昔からトリックスター的存在の人は多くいた。そういう存在のおかげで、社会が上手く回っているとも言える」という言葉も理解できる。

 いろいろなタイプの人がいていいのだ。いろいろなタイプの人がいるから、世の中おもしろいのだ。

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カオス②

 山崎先生の話は衝撃的であったが、私の興味を掻きたてた。トリックスターが何なのかよくわからないまでも、プロメテウスと同じと言われれば悪い気はしない。

トリックスターの存在は世界中の民話に残されていて、こんな話もあるんですよ」

 それは、グリム童話の「ガラス瓶の中の悪魔」という話だった。

とても貧乏な木こりの親子がいた。ある日、息子は森の木の根元の小さな穴に、カエルが閉じ込められているガラスビンを見つけた。息子がガラスビンを拾い上げると、中のカエルが息子を見つめて、

「助けてくれー!出してくれー!」と、叫んだ。

『人間の言葉をしゃべるカエルなんて、きっと森の化け物に違いない』そう思った息子は、カエルの入ったガラスビンを再び木の根元の穴に戻そうとした。

「待て!頼む、頼むから穴に戻さないでくれ!お願いだ。出してくれたら、何でも言う事を聞くから」

 カエルがあまりにも必死に頼むので、息子は仕方なくガラスビンのフタを開けた。するとビンの中からカエルが跳び出して、ムクムクと大きくなりながら醜い悪魔に姿を変えた。

 息子はあわてて逃げようとしたが、悪魔は鋭いツメで、息子の足を切り裂いた。足を切られた息子は、逃げる事が出来ない。

「久しぶりの食事に、お前を食ってやろう」

 そう言って大口を開ける悪魔に、息子は言った。

「何でも言う事を聞くと言っただろ!僕を食う前に僕の願いを聞いてくれ!」

「確かに約束をしたな。何が願いだ?助けてくれという願いは聞かんぞ」

「体の大きなお前が、この小さなビンから出てきたことが信じられない。もう一度、この小さなビンに入って、再び出てくる姿を見たいんだ」

「そんな簡単な事か」

 悪魔はそう言うと、小さなビンに飛び込んで元のカエルの姿になった。

 息子はすかさず、ビンのフタを閉じた。文句を言うカエルに、息子は言った。

「誰にも見つからない様に、大きな穴を掘って埋めてやる」

「もう人は襲わない。それに魔法の布をあげるから、助けてくれ」

「約束は守れよ!」

 息子がビンのフタを開けると、悪魔は息子に頭を下げて汚い布を渡した。

「これは魔法の布です。これで体をこすると傷は治り、鉄をこすると鉄は銀に変わります」

 そこで悪魔に切り裂かれた自分の足の怪我をその布でこすると足の傷が治った。

 家に帰った息子は、魔法の布で鉄の斧をこすると、鉄の斧が銀の斧に変わった。

 息子はこの銀の斧を売り、父親にお金を渡し、家を出た。

 その後、息子は魔法の布を使って、どんな怪我でも治すお医者さんになった。

「とまあ、いきなり不思議な話になってしまいました。プロメテウスの話がすぐに通じる人はめずらしいもので、つい私も話が脱線してしまいました」

  私の頭は混乱した。木こりの息子がトリックスターということなのだろうか? 
 プロメテウスの話までは、前乗りで山崎先生の話を聞いていた私だったが、グリム童話は分からないことがあり過ぎて、引いてしまった。質問の言葉も見つからないほど、頭の中がカオス状態だった。

 私のカオス状態に気付いた山崎先生は、場の空気を換えるべく、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。

「結論はさっきも言った通り、昔からトリックスター的存在の人は多くいたということなんです。そういう存在のおかげで、社会が上手く回っているとも言えるんですよ」

 帰宅した私は、山崎先生の話を反芻した。トリックスターとは何か、検索もした。しかし、納得のいく回答には辿り着かなかった。

 モヤモヤしたまま2週間ほど過ぎたある日、リオの担任の松本先生との面談のため、小学校へ行った。面談終了間際に、松本先生から最近のミツキの様子を尋ねられた。ついでにトリックスターの一連の話をすると

「なんだがよく今はわかりませんが、そのうちこういうことだったのかと思う時が来るのかもしれませんね」と首を捻りつつ言った。

 なんだか妙に納得した。

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カオス①

 ミツキに小児神経科への受診を促した翌日は、3回目のカウンセリング予約日だった。

 早速、山崎先生に前日のミツキとのやり取りを話した。

「一旦は突っぱねましたけど、それなりにミツキくんは考え始めると思うんです。だから、少し待ってみましょう」

 焦らず、困ったことに直面したときに、もう1度声を掛けようと思った。

 カウンセリングは、開始10分で話が終わってしまった。
 そこで、数日前担任の持田先生からきた電話の内容を話した。それは、理科の実験でのミツキの行動についてだった。

 

 理科の実験の授業でのこと。実験でアルコールランプを使うため、予備を含めて4本ずつのマッチが各班に配られた。実験が終わりアルコールランプを返却する際、先生からの指示がなくとも、どの班も未使用のマッチを返却した。ミツキの班も返却したものと思われた。しかしその数時間後、ミツキがポケットからハンカチを取り出す際、2本のマッチを廊下に落としたことにより、返却をしなかったことが発覚した。

「ミツキくんには注意をし、本人も反省していますので、まずはご報告まで」と持田先生は言った。

 帰宅したミツキに先生から電話があった旨を伝え、事の次第を理解しているか確認した。

「一旦配られたわけだから、もうオレたちの物じゃん。別に返さなくてもよくね?」

「おーっと、やっぱりそう思っていたか。4本配られたけど、あくまでも予備に4本なの。本当は1本で足りるところ、上手く火を点けられなかったときのために多く配られたの。残りを毎回持って帰ったら、学校の備品がどんどんなくなるじゃない。あくまでも、未使用のマッチは学校の物です。つまり、あなたは窃盗罪です。ていうか、そもそも残りのマッチ何に使うの?なんで持って帰ったの?」

「何かに有効活用できるかなと」

「ない、ない。もしさ、時を同じにして近くで不審火があってさ、あなたのポケットからマッチが出てきたら、疑われるよ。余計な物持つな」

「おお、確かに」

「ニュースでも、ときどきあるじゃん。駅のホームでケンカしてカッとなってナイフで刺してしまったとか。そもそも何でナイフ持ち歩いているんだってって話よ。余計な物持つな」

「なるほど」

「ミツキはさ、衝動的タイプだから、何かやる前に1秒でいいから『やっていいのかな』って考えて。そして予め言っておく。ふと思いついたことは大抵ロクなことないから、やめておけ」

 

 このようなくだりがあったと山崎先生に話すと、先生の表情が変わった。

「ものすごくヘンな話をするから、聞き流してもらっていいんだけど・・・」

 言いづらそうな先生の表情に戸惑う私。

「ミツキくんは、たぶん神様なんだよ」

「へ?」

「火の神様。プロメテウス」

「プロメテウス。あのギリシア神話の?」

「そうそう。知ってますか」

「はい。知ってます。私もミツキも、ギリシア神話が好きなので。しかも、ギリシアの神様の中で一番プロメテウスが好きです」

「ああ、そう、じゃあ話が早い」

 プロメテウスとは、ギリシア神話に登場する男神で、ティタン神族の一柱である。ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた存在として知られる。また人間を創造したとも言われる。

「ミツキくんを、プロメテウス的だなと感じたことはありませんか」

「いやー。プロメテウスというよりも、弟のエピメテウスの方が近いかと」

「エピメテウス?」先生が身を乗り出した。

「はい。プロメテウスは『先に考えるもの』という意味で、エピメテウスは「後に考えるもの」という意味です。ミツキは衝動的な行動が多いので、プロメテウスのように先に考えるものになるようにってよく言うんです」

「ほう、なるほど。それは知らなかった。プロメテウスは、トリックスターと言われていて。ミツキくんは、プロメテウスと同じトリックスターだと思うんですよ」

トリックスター?」

「そう。トリックスターは簡単にいうと、突然問題を起こして、周りを翻ろうさせて、でも結果いい方向に向かわせる人のことです」

「へえ」言葉が出ない。

「ミツキくんにそういう傾向ないですか?」

「ミツキは、お騒がせ男なので、確かにいつもそんな感じです。周りを翻ろうさせるけど、結局、悪い気はしないというか、むしろよかったみたいな。だから、つい許してしまう」

「そうそれ。つまり、神話に書かれるくらい昔からそういう人間が存在するってことです」

 私の頭の中は、一気にカオス状態となった。

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告知

 スクールカウンセラーの山崎先生に小児神経科の受診と薬の服用を勧められて以来、ミツキにどんな言葉で伝えたらショックを最小限に抑え、前向きに理解してもらえるかということで、私の頭の中はいっぱいだった。私だってこんなに混乱しているのだ。本人はもっと辛く受け止めるだろう。

 そもそも本人は困っていないのだ。なぜ、先を見通して予定が立てられないのだろうかとか、予定通りに事が進まないのだろうかとか、ケアレスミスが多くて困るとか、おしゃべりが止まらなくて困るとか、そんな考えを巡らせたことさえないのだ。スムーズに進まないけど気にするほどでもないか、程度にしか感じていないのだ。
 ときには、スムーズになんでもこなす友だちを見て、なんで俺はうまくいかないのだろうかと思うこともあるようだが、すぐ気を取り直して「まあ、アイツは天才だからな」と片付けてしまう。
 そんなミツキを見て私は「天才でなくてもできている。できていないのは、かなりの少数派」と思う。それをやんわり伝えるのだが、やんわりだと伝わらず、ちょっときつめに伝えると、傷ついた顔をする。プライドは一人前だ。

 困ってもいなければ、改善の意思もない人間にわざわざ告知する必要があるのだろうか。むしろ、ミツキは幸せに生きている。私や学校の先生など、先のことを考える大人からしたらミツキの全てが不安だが、本人はそんな不安は微塵もないのだ。不安感を持っていない人間を、わざわざ不安の渦に陥れるようなことをしていいのだろうか。

 いや、今が決断のときなのではないだろうか。2年先には高校受験がある。改めて検査して、今度こそしっかりと診断結果を受け止めるべきだ。療育や薬の服用を今からすることによって、2年後のあり方が大きく変わるかもしれない。
 何もしないで、あのときやっておけばよかったと後悔するくらいなら、今やった方がいい。やって後悔しないように、ひとつずつ丁寧に進めて行こう。これでよかったのだと思える未来を作っていこう。

 その上で一番大切なことは、ミツキの心を傷つけないこと。本人が納得して受診すること。本人が納得する方法を選ぶこと。

 何も言えないまま、1か月が過ぎた。入塾したばかりだったので、気持ちを混乱させたくなかったのだ。

 塾は、西の駅の近くにある個別塾に決めた。先生1人対生徒2人。週2日で英語と数学。部屋は広々としていて、きれいだ。自習室もあり、環境が整っている。毎回の塾での学習内容や理解度、宿題の達成度などが一目でわかる表があり、親の目も届きやすい。同じ中学の同級生がいないため、塾終了後はまっすぐ帰ってきた。滑り出しとしては良好だった。

 塾にも慣れてきた11月下旬、塾の三者面談があった。私はこの日をミツキに告知する日と決めていた。普段ミツキが家にいる時間は、リオも家にいる。リオの前での告知は避けたかったのだ。塾の三者面談は夜8時からだったので、その日は夫に早く帰ってもらいリオと過ごすよう頼んでいた。

 面談後、ファミレスでお茶でもしながらゆっくり話す予定でいたのだが、急遽9時から授業が入ってしまった。面談後30分程時間があいていたので、隣接する大型スーパーへ行った。人気のないベンチを見つけ、ミツキと並んで座った。時間がないので、すぐに話を切り出さなければならなかった。

「ミツキは、中学に入学してから、勉強のことや、部活中のことや、学校生活のことで、何か困っていることない?」

「え?なんで?」明らかに不振がっている。

「小学生のときはさ、勉強でこんなに苦労しなかったじゃない。少し前にさ、中学の授業は進みが早くて、先生が何を言っているか分からないって言ってたじゃない。今もそんな感じなの?」

「うん、だから授業中につい別のこと考えて別世界に行っちゃうんだ」

「他にも別世界に行っちゃう子っている?」

「いるにはいるけど、あんまりいない」

「まずいじゃん」

「うん、まずい。でもしょうがない」

「小学生のころは、友だちものんびりしてたじゃん。でも、そういう子たちが急激に成長しているなって感じることはある?」

「うん、まあ」いぶかしげな表情で睨んだ。

「なんでこんな話をするのか、今から言うね。実はね、ママは今のミツキに心配なことがあって、スクールカウンセラーの先生に話を聞いてもらったの。ミツキの成績のこととか、学習の様子とか、三者面談での様子とか。そうしたら、もしかしたらミツキの脳の神経が少しギザギザしていて、伝達が上手くいっていないかもしれないから検査をしてみて、そのギザギザを抑える手立てを考えてみてはどうかって勧められたの」

「・・・」無表情でこちらを見つめる。

「集中しづらかったり、おしゃべりがとまらなかったり、自分のペースを押し切っちゃたり。なんかスムーズにいかなくて困るなって感じることはないかな」

「上手くいかないけど、オレは全然困っていないんだ」

「そうか。そうだよね。そう言うと思った。それは幸せなことだよね。先生や友だちに感謝すべきだよ。もちろんミツキ自身のキャラクターのおかげでもあるけどね」

「そうだよ。オレは大丈夫だよ」

「うん、今日のところは分かった。ミツキが満足していることが分かってよかったよ」

「別に満足はしていない」

「そうか。じゃあ今は一旦おしまいだけど、あとでもう1度考えてみて」

 塾へ戻るミツキの背中を私は重い気持ちで見送った。

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薬のすすめ

 塾探しをしているうちに1か月が経ち、2回目のカウンセリングの予約日となった。私は山崎先生に、この1か月間のミツキの学習の様子を話した。

・自分から学習をする意思のないこと

・自分で学習予定表を作るよう説得すると、渋々作り始め
 たが、予定表を作ること自体が上手くできず、頓挫した
 こと

・予定表を一緒に作っても、予定通りに進められないこと

・数学と英語の定期試験のやり直しを何度しても、ケアレ
 スミスが異常に多いこと

 これらのことを話し終えたとき、山崎先生が、ある提案をした。それは、私にとって想定外な提案だった。

「ミツキくんには、薬による体質改善が必要なんじゃないかな」

「え?薬ですか?どんな薬ですか?」

「ミツキくんはね、脳の神経の伝達が上手くいっていないんだと思います。イメージとしては、脳の神経がギザギザ尖った感じ。ギザギザしていて、脳の神経の伝達がスムーズにいかないから、予定表を作れなかったり、守れなかったり、ケアレスミスが多かったりするわけです。これから勉強も難しくなって、やらなければいけないことも増えるでしょう。だから、脳の神経の尖った部分を滑らかに落ち着かせる薬を飲んでみてはどうかと思うんです。これから高校受験もあるので、ミツキくんも落ち着いた状態で過ごせたら楽だと思うんです」

 先生は正論を言っていると理解はできた。だが、すぐには受け入れられないほどショックだった。小学2年生で軽度発達障害の可能性を指摘されたとき以上にショックだった。なぜなら、軽度発達障害は、療育や周りの人間のサポートによって何とかなると、私は自分に言い聞かせてきたから。ところが、薬を使わなくてはならないほど難しいものだったなんて。

 発達障害は、治す治さないの問題ではなく、その人の個性だ。難しい面もあるけれど、個性として受入れようとすることが正しいと思っていた。だが、そうではないのだ。そんなのやっぱり現実的ではないのだ。今、ミツキは恵まれた環境にいるけれど、いずれもっと広い世界に出たら、理解してくれる人間ばかりではない。

 受験のこともある。これだけケアレスミスが多かったり、集中力散漫だったりでは、受験など上手くいくわけがない。ミツキにとって一番いい方法はなんだろう。ミツキがいきいきと幸せに生きられるようになるには、やはり薬の服用が必要なのだろうか。

「急な提案だから戸惑うと思いますので、ゆっくり考えてみてください。ちなみに、薬の服用に関しては、あくまでも小児科医の診断が必要ですから、検査を受けてからということになります。小学生のときは、小児科医の診断まではしていないんですよね? でしたら、薬の件は置いといて、今のミツキくんの状態を診断してもらうだけでも意味があるかもしれませんよ」

 小児神経科を受診するよう勧められた。

 診断をしてもらうことに本当に意味があるのかよく分からなかった。でも、今ここで何もしなければ、何も変わらない。何か行動を起こしたら、何かが変わるかもしれない。ならば検査を受けてみよう。

 小児精神科の病院は、近くにあった。予約センターに電話をすると3回も長い保留にされたのち、初めは予約可能な雰囲気だったが最終的にすべて覆され、紹介状がないと予約は取れないからと切られた。

 中学校の養護の本宮先生に相談すると、中学校の校医の病院で紹介状を書いてもらってはどうかと教えてくれた。

 まずは校医の木下医院に行こうと思ったとき、ミツキを連れて行くとこに気が付いた。ミツキに何と説明したらよいのだろうか。

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塾探し

 ミツキの成長記録である『葉野ミツキの育て方』は、中学生になって初めての三者面談の様子から始まり、その後ミツキの出生からの成長を振り返ってきた。ここからは、2020.2.3配信の「スクールカウンセラー」からの続きである。

 スクールカウンセラーの山崎先生の助言通り、私は、ミツキの学習に付きっきりになることをやめていた。しかし、学習方法を教えたところで、自ら机には向かわない。見守るとは、どうすることなのだろうか。このままでは、成績は下がる一方だ。しかし、付きっきりになれば、自立は望めない。

 小学校の学習と比べて一気に量も難度もレベルアップしたことによって中学生ギャップに陥り、ミツキにとって勉強は最もやりたくないことになってしまったのだろう。
 ミツキにやりたくないことをやらせる苦労は、これまでも散々味わってきた。見守りつつもやらせるには、どうしたらいいのだろうか。

 私は、塾さがしを始めた。ミツキは、学習方法が身に着いていなかった。1人で出来ないのなら、塾に通って教えてもらうしかない。

 まず塾のタイプを考えた。集団タイプか個別タイプか。集団の場合、学校の授業と同じであろう。結局先生の話を聞き逃して、内容を理解できないに違いない。個別であれば、先生と1対1あるいは1対2だから、目が届きやすいだろう。

 次に塾の場所。我が家から東と西へそれぞれ約1キロ先に、駅があった。東の駅の方が西の駅より栄えていて、塾の数も多かった。学校の友だちの多くが、東の駅周辺の塾に通っていた。

 塾帰りに友だちと遊んでしまい、帰ってこないというのは、中学生男子あるあるだ。遊びたくて仕方ないミツキを東の駅周辺に通わせたくない。更に悪いことに、東の駅前には、中学生がたむろする公園があった。この公園でのトラブルもよく耳にしていた。

 そこで西の駅周辺の塾をピックアップし、一軒一軒話を聞きに行った。

 塾さがしに1か月ほどかかった。その間、ミツキを放っておくわけにはいかないので、家庭学習の指示を出した。

 英語と数学は、積み重ねの学習だ。中1で躓いたら後にひびくので、分からないままにせず復習が肝心。中間試験後、英語と数学の試験問題のやり直しをさせた。

 英語の中間試験の問題は、大問の数が全部で12。そのうち、大問8までは、記号選択と単語スペルの問題。大問9以降は、英文記述問題だった。スペルの暗記や、英語の言い回しの暗記、初歩的な英文の記述であり、難易度は妥当だ。初めて英語を習う生徒にも点の取り易い内容だった。答えを参考にしながら再度暗記をすれば、復習テストは百点を採れるかと思いきや、ミツキは大苦戦をした。

 何度もスペルを間違えるし、ピリオドとクエスチョンマークの付け忘れ、文頭の単語の大文字にし忘れ。5回以上やり直して、やっと70点だった。

 期末試験は、中間試験よりも問題数は増えたが、難易度は妥当だった。やり直しをしたが、異常にケアレスミスが多く、何度やり直しても高得点に至らない。

 ミツキの中で、英語はやりたくないことであり、思考が完全にシャットダウンしていていた。

 それに対して、数学にはヤル気がみえた。しかし、点数は何度やり直しても芳しくなかった。試験問題の難易度が高度であることが、原因のひとつだと思う。

 通常は、大問1の計算問題から始まり、徐々に応用問題になっていくのが、一般的な数学の試験問題だと思う。
 しかし、この学校のものは、大問1から設問選択問題だ。5つの設問から好きな問題を1つ選んで答える。どれを選んでも癖のある問題だ。大問2で、数学の知識を問う問題。大問3,4でやっと計算問題。大問5,6で考え方を問う問題。大問7でまた設問選択問題。大問8,9でややこしいの応用問題。大問10で数学マニア的問題。全部で9ページもある。
 小学校でカラーテストしか受けたことのない中学1年生が、50分間で解き終えるのは難しい。数学マニアが作った、趣味の域の問題に感じた。

 つい問題のせいにして文句を言ってしまうが、平均点は50点なのだから、難しいと言えどもみんなは付いていっている。中には90点台の子もいるのだから、文句を言う暇があったら、努力しろということになる。

 そこで、結局また付きっきりで私がミツキに教える破目になる。元の木阿弥だ。

 ところが、小学生のころのようにはうまくいかない。ミツキが、母親である私に教えられるということを拒み始めたからだ。

 早急に塾を探さなくてはならないと思った。

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