【こぼれ話】羽化

 ミツキが小学3年生の5月下旬、小学校のプール清掃に伴って行われた「ヤゴ救出作戦」で、ヤゴを14匹もらってきた。

 私が、トンボの幼虫はヤゴであると知ったのは、中学2年生のときだった。矢後先生という女性の先生が近々結婚するというので、なんという名字になるのだろうかと噂をしていると、冗談好きのN先生が「トンボ先生だよ」と笑いながら言った。ぽかんとしている私たちにN先生が、慌てて説明したのだ。

 ミツキが生まれて、虫の世界を題材にした絵本で、かわいらしく描かれたヤゴを目にするようになった。どんなにかわいらしくても、肉食だから赤虫やメダカを食べる。下あごを伸ばして獲物を捕らえるのだから、なかなか凶暴だ。それでも、月夜の晩に枝を登り、羽化する場面は神秘的だった。

 ミツキがヤゴを飼いたいというのを、実は待っていた。しかし、私は敢えて難色を示した。

 私が少しでも手を出すと、たちまち私の仕事になってしまう。夫とミツキとで最後までヤゴの世話をするようにと突き放した。

「ママは絶対に何もやらないんだって。オレたちだけでやるんだから、お前もしっかりと手伝えよ」

「わかったよ。ちゃんとやるよ」

 父子は水槽に砂利を敷きつめ、ホテイアオイを浮かべ、ヤゴを放った。

 実物のヤゴは、目が大きくきょろきょろとしていてかわいかった。下あごもえさをとるとき以外は気になるほど出てはいないようだ。

 14匹のヤゴたちの名前は、体の大きい順に一郎、二郎、三郎……一番小さい十四郎。父子は小さい十四朗を特に応援した。

「14匹全部羽化させるぞ。とうしろう、絶対トンボになれよ!」

 エサは生きている赤虫を釣り具店で買った。1パック50匹ほど入っている赤虫を毎日数匹ずつヤゴに与える。ストックしている赤虫を死なせないようにと、毎朝赤虫専用水槽の水を換えることがミツキの仕事となった。

 ヤゴは夜行性なので、夫は夜に赤虫を与えた。5日間ほどで1パックがなくなる。なかなかの食いつきのようだ。

 一切の世話を断っていたが、平日に赤虫のストックがなくなると、私が買いに行かなくてはならなかった。

 何回か赤虫を買ったある日、ヤゴの水槽を掃除していたミツキが、赤虫が邪魔で水槽の水が換えられないと困っていた。割り箸で砂利を寄せると、次から次へと赤虫が出てきた。ヤゴに食べられているとばかり思っていた赤虫は、水槽に入れられると砂利の下に潜り難を逃れていたのだ。赤虫が百匹以上残っていて、まるで赤虫を飼っていたようなものだ。

 考えた父子は、水槽いっぱいに砂利を敷きつめるのではなく、真ん中にぽっかりと砂利のない空間を作り、そこに赤虫を入れ「レストラン赤虫」と名付けた。これにより赤虫は消費されていった。

 インターネットでヤゴの羽化について調べていた夫が、気になる記事を見つけた。釣り具店で売られている赤虫は、商品価値が落ちないよう、成長抑制剤が使われているという。そこで夫は、メダカを数匹買ってきた。メダカを餌にすることに私が難色を示していると、慌ててミツキが言った。

「ママ、オレは何度もやめとけってパパに言ったんだよ」

 私たちの抵抗も虚しく、水槽にメダカが放たれた。しかし、入れてみるとヤゴよりもメダカの方が少し大きい。我が家のヤゴは赤とんぼで、メダカを食べるのはギンヤンマなどのサイズの大きいヤゴのようなので安心した。

 7月初めのある朝、ベランダからミツキの歓喜の声が聞こえてきた。駆けつけると、水面で羽をバタつかせる一郎の姿があった。まだうまく飛べないのだろうか。ミツキがすくって飛ばすと網戸にとまった。そして、一息つき大空へと飛んで行った。その姿は、想像していた悠々としたものではなく、どこかはかなげだった。

 ヤゴたちは、次々と羽化するために枝に登り始めた。しかし、羽化することはなく、ヤゴの姿のまま体を硬直させた。中には背中はやぶれたものの、羽化の途中で硬直してしまったものもあった。やはり、赤虫の成長抑制剤のせいだろうか。

 羽化の難しさを目の当たりにし、強いものだけが勝ち残る自然の摂理を思い知らされた。

 ミツキは一郎の脱皮した殻をペットボトルのふたに入れて大切に保管し、それ以外のヤゴの死骸は土に埋めた。

 ヤゴのいなくなった水槽ではホテイアオイが茂り、メダカがわがもの顔で泳いでいた。

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【こぼれ話】葉野ペロ

 我が家にペロくんがやってきたのは、ミツキが幼稚園年長の冬のことだった。

 ペロくんとはザリガニの赤ちゃんのことで、名付け親はミツキだ。

 冬休みの直前に幼稚園で産まれたザリガニの赤ちゃんを6匹もらってきた。家には水槽もなければ砂利も餌もない。ザリガニたちは1センチにも満たないので、水槽はプラスチックのコップを代用し、砂利と餌は友人に分けてもらった。

 早速餌を与えてみたが彼らは見向きもしなかった。ザリガニは冬の間は餌を食べないのだと知り、慌てて餌やりをやめた。

 数日後、朝起きてコップの中を覗くと3匹に減っていた。共食いをしたのだ。その翌日には2匹が死んでしまい、ついに1匹だけになってしまった。

「ペロっと食べちゃうからペロくんて名前にしようっと」

 ミツキが皮肉ともいえる名前を付けた。

 ペロくんは無事に冬を越し、餌を食べるようになると、脱皮を繰り返しどんどん大きくなっていった。餌を食べる姿がかわいくて食べ終わるまで眺めた。

 梅雨の蒸し暑い日、大事件が起きた。幼稚園から帰ってきてコップの中を覗くと、ペロくんが砂利にうずくまっていた。コップを揺すってもピクリともしない。ミツキの顔がみるみる青くなり、泣き叫んだ。3日に一度の水の入れ換えを忘れていたので、幼稚園から戻ったらやるつもりでいた。水は朝見たときよりも汚れを増していた。

「泣いてないで。水を換えるよ」

 水の汚れが原因かは分からなかったが、今自分たちにできることはそれしかない。

「ペロくん生き返って。ぺろくん!」

  子どもたちと一緒に何度も声をかけた。すると、まったく動かなかったペロくんの触角が微かに動いたのである。続いて半透明の体の中の心臓部分がピクピクピクと動き出した。

 私たちは抱き合って喜んだ。この事件以来ミツキはペロくんをさらに大切にするようになった。夏の家族旅行の際もペロくんをおいて3泊はできないというので、友人に預かってもらったほどだ。

 ザリガニは産まれて半年ほどで殻が赤くなると聞いていたが、ペロくんは半透明のままだった。体も一般的なザリガニより二回りほど小さかった。入れられた水槽の大きさに合わせて成長するものらしいと聞き、慌ててコップから大きな水槽に代えた。

 ペロくんにもっと快適な暮らしをさせたいと、ミツキが図書室でザリガニの飼い方について書かれた本を借りてきた。それにより、小さな容器に何匹も入れておくと共食いをしてしまうこと、隠れられる場所が必要なこと、脱皮をしたらその皮を食べるので捨ててはいけないことなどが分かり、初めから飼い方を調べるべきだったと大いに反省した。

 さらにオスはハサミが大きく、メスはハサミが小さくてお腹の下に無数の足のようなものが付いていることが分かった。したがってペロくんはメスと判明。実はペロちゃんだったのだ。

 隠れるための貝殻を入れてやるとすぐに入った。餌の時間以外滅多に姿を現さなくなったが、外の様子をよく窺っているようで、辺りが静かになると貝殻から出てきた。

 さらに体が大きくなると巣作りなのかせっせと建設作業をするようになった。両方のハサミで4,5個の砂利を抱えて運んでは大きな山を作った。カタカタと砂利を運ぶ小さな音は我が家の生活音の1つとなった。

 秋も深まったころ、ペロくんの殻の色について家族会議が開かれた。ペロくんの殻は成長とともに通常の赤ではなく青みがかった色になってきていた。山深い日の当たらない場所に住むザリガニは青くなるらしい。確かにペロくんはリビングの一番奥の日の当らない場所にいた。このまま珍しい青ザリガニに育てようという意見と、このままでは長生きできないのではないかという意見に分かれた。

 やはり健康が一番と話しがまとまり、早速ベランダに出した。そして1時間ほどして水槽を覗くとペロくんが完全にひっくり返って死んでいた。

 私とミツキがパニックを起こしていると、夫が水槽の水をかき出して叫んだ。

「直射日光に当てたらだめじゃないか」

 水温がかなり上昇していた。必死でペロくんの名を呼んだが今度はだめだった。数々の無知を悔いたがもう遅かった。

 ミツキはしばらく机の下にもぐって泣いていた。少し気持ちが落ち着いたところで、お墓を作るのだと割り箸を出してきて言った。

「パパ、はのペロって書いて」

 そうだ、ペロくんの名字は葉野だったのだ。私たちの大切な家族。

 ペロくんの亡骸は、ミツキと夫により土手の花壇に葬られた。

アジサイの下にペロくんを埋めたんだ。ミっちゃんの誕生日が来るころアジサイの花が咲くでしょ。そうしたらペロくんはきっとミっちゃんのことを思い出してくれるよね」

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【こぼれ話】たった1つのジャガイモ

 ミツキ小学4年生、リオ幼稚園年長の冬のこと。

 夕飯をおでんにしようと思い、予め買いこんでおいた食材を切り始めたところで、ジャガイモがないことに気が付いた。

「わあ、ジャガイモがない。失敗した!」

 思わず私は声をあげた。

「じゃあオレが買ってきてやるよ」

 夫が声をかけてくれたが、私は少しためらった。

「ありがとう。でも、そうじゃないのよ。あのスーパー安いでしょう? だから、私なるべく行かないようにしてるのよ。行くとつい買っちゃうから。ジャガイモ1つ買いに行くだけのつもりでも、他の物も買っちゃうのよね。パパにお願いしてもきっと同じ結果になると思うのよ」

「じゃあ、オレが行くよ。おでんのためなら行くぜ」

 私と夫のやり取りを聞いていたミツキが言った。

 ミツキは大のおでん好きだ。しかし、練り物はほとんど口にしない。大根、ジャガイモ、こんにゃく、たまごを繰り返し皿に取っては黙々と食べる。

 ミツキの申し出はありがたい。願ってもいないピンチヒッターだ。

「そうだね、あなたに頼むのが一番いいね。1つ198円くらいだと思うから」

 ミツキは500円玉を一枚握りしめ、一緒に行きたがるリオを連れて出かけて行った。

 15分ほどで帰ってきた子どもたちの買い物袋の中身を見て、思わず言葉を失った。

 手提げ袋には個売りのジャガイモが1つだけ入っていた。

「なんで1つなの? 一袋5個入りで198円くらいのジャガイモなかったかな?」

「あったよ。すごく迷った。でもママさっき、ジャガイモ1つ買うのになんとかって言ってただろ? なあ?」

 ミツキが、リオの方を振り返った。

「ママは、ジャガイモ1つって言った」

 リオが自信を持ってきっぱりと言った。

「このジャガイモは、1ついくらだったの?」

「98円。ママが198円くらいだって言ってたから、おかしいなとは思ったんだ。でも、安い分にはいいだろう? その中でも一番大きいのを選んだんだぞ。なあ?」

「うん。一番大きかった」

 ミツキとリオが、ジャガイモ売り場で「ママは1つって言った」と確認しあいつつ、一番大きいものを選んでいる姿を思い浮かべると、なんとも微笑ましい。

「確かに言ったけど、そういう意味じゃなかったんだ。いつもおでん食べてるんだから分かりそうなものだと思うけど、まあ仕方ないか。私の頼み方が悪かったね。2人ともどうもありがとう。それにしても大きなジャガイモだね」

 その晩は、袋入りよりも立派な大きさの、たった1つのジャガイモ四等分入りのおでんをおいしくいただいた。

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【こぼれ話】 指しゃぶり対決

 ミツキは、暇さえあれば右手親指をおいしそうにしゃぶっていた。3歳ともなると指しゃぶりをする子はまわりにほとんどいなくなる。定期歯科検診では上の前歯の歯並びが悪くなりつつあると警告され、早急にやめさせるようにと注意を受ける。困ったものだと思いながらも徹底的にやめさせようという気持ちになれない私がいた。

 なぜなら、私自身が小学3年生の夏まで指しゃぶりをやめられなかったからだ。

 私が子どもの頃は、定期歯科健診を受けることがなかったせいか、小学校に入学するまでは親に注意された記憶があまり無い。しかし、小学生になった途端、親指に絆創膏を貼られたり、ワサビを塗られたりと困った日々が始まった。

 いつまでも指しゃぶりをしているのは恥ずかしいことだという認識はもちろん私にもあった。なんとかしてやめたいのだが、気が付くと指をしゃぶっているのだ。そして妙においしく感じる。

 神仏問わず、祈る機会があれば「どうか、指しゃぶりが治りますように」と祈り続けた。しかし、祈りの甲斐なく学校の通信簿に「授業中に指しゃぶりをしています」と書かれて親に大目玉を喰らってしまった。

 先生に注意される日々だったが、不思議とクラスの友人たちから中傷されることはなかった。私なりに、友人たちには気付かれないよう注意を払っていたのだ。

「3年生まで私が指をしゃぶっていたこと知ってた?」

 大人になったある日、小学生時代からの友人に聞いたことがある。

「知ってたよ。クラス中みんな知ってたよ。当たり前でしょう? いつも堂々と指しゃぶってたじゃない。でもね、みんな気を遣ってなにも言わなかったんだよ。今のこんな時代だったらキモイとか言われていじめに遭ってたかもね」

 即座に返ってきたその返事に、驚いた。私が、堂々と指をしゃぶっていた? 情けないやら、恥ずかしいやら。当時のクラスメイトに感謝である。

 私は相当やばいヤツだったようだが、ミツキは、しっかりと指しゃぶりTPOを守っていた。

 プレ幼稚園に入ると、人前では絶対に指をしゃぶらなかった。家に帰るときれいに丁寧に手を洗い、ソファーに座ってからおもむろに指をしゃぶりだす。

 4歳で指しゃぶりTPOをわきまえられるのであれば、小学校入学前には指しゃぶりを卒業するだろうと思っていたが、上手くコントロール出来るがゆえに続いていった。

 ちなみに、私が卒業したのは小学3年生だった。ある寝苦しい夏の夜のこと。いつものように自然と指をしゃぶりウトウトしかけたとき、曲げた肘内側が汗ばみ暑かったので、バンザイのポーズをした。布団からはみ出し、畳に投げ出した腕がひんやりとして気持ちがよく、すぐに眠ってしまった。

 翌朝、指しゃぶりなしで眠れたことを思い出し、これはいけると思った。それからというもの毎晩意識してバンザイポーズを整えてから眠りに就いた。不思議と日中も指しゃぶりをしなくなった。

 私が偶然の産物でなんとか卒業したのに対して、ミツキは2年生に自らの意志で卒業した。

「6月1日から夜寝るときの親指しゃぶりをやめているんだ。1か月以上経ったぞ」

 そう報告を受けたとき、少し悔しかった。

「あともう少し日が過ぎたら、試しにもう1度しゃぶってみるといいよ。指がまずく感じたら指しゃぶりと真の決別といえるよ」

 悔し紛れに先輩風を吹かせて助言すると、ミツキは大きく頷きながらどや顔で言った。

「もうやってみた。まずかったぜ」

 私より1年早く、しかも自らの意思で卒業したミツキ。完敗を認めざるをえない。

 負け惜しみを言わせてもらうと、同じ右利きである私とミツキであるが、しゃぶっていた指は、ミツキが右で私が左だったことが関係しているのではないかと思っている。

 それからもう1つ。ミツキは小学4年生のとき、学校の歯科検診で噛み合わせが悪いと診断を受けた。悪いと思ったことがなかったので驚いた。慌てて歯科医院に行き、5万円のマウスピースを購入。毎晩装着して寝た。10か月ほどで標準的な位置になったと診断を受けて装着は終了。

 当時は気付かなかったが、今になってマウスピース装着前後の写真を見比べると、全然顔が違う。マウスピース5万円高っ! と思ったが、あのときやっておいて本当に良かったと思う。

 ちなみに、私の噛み合わせは、悪くない。

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おわりに

 中学校の三者面談でミツキに対して感じた違和感の話から始まり、出産時まで一気にさかのぼり、成長を振り返りながら、中学卒業までを記してきた。

 ミツキにキャッチフレーズを付けるとしたら「生まれたときから反抗期」だ。生後8か月で児童館デビューをし、社会とのつながりを持つようになってからずっと、子育ての悩みが尽きなかった。

 4年後リオが生まれると、リオの育てやすさに驚いた。勝手にすくすくと育ってくれた。それだけに幼いころのリオの思い出は薄い。ミツキの圧倒的存在感には誰も敵わない。

 本やインターネットで、子どもへの接し方について書かれたものを読みあさった。どれもとてもすてきな内容で、なるほどこんなときはこう対応するのかと納得する。だが、ミツキとの実生活では活用できない。本に載っている事例とは微妙に違うのだ。

 普通の子育て本で限界を感じた私は、ミツキの発達障害を疑い始めた。調べてみると今度は、そこまで困っていないと感じた。

 ミツキを病院に連れて行ったが、それで良かったのか今も分からない。連れて行って良かったという実感はないのだ。ADHDだと分かったところで、ミツキ自身の変化を感じなかった。検査したことに対して、ミツキがどんな風に感じたのかさえも、情けないことによく分からないのだ。

 唯一変わったことと言えば、私自身が「この子はADHDなのだから仕方ない」と思えるようになったことだ。しかし、そう言いつつも「これは本当にADHDの症状なのか?」と疑う気持ちも拭えなかった。

 どの本を読んでも当てはまらないので、ついには「葉野ミツキの育て方」という本はないのだろうかと本気で思うようになった。分かりきったことだが、そんな本はこの世に存在しない。だから、私はもう子育てに関する本を読むのをやめた。

  その代り、今後ミツキのような子どもを持ったお母さんのために、私の体験談を書いてみようと思った。共感してくれる人がいるかもしれない。もしかしたら、何かの参考になるかもしれない。

 「葉野ミツキの育て方」を書いていると、ミツキはその時々の私の対応をどんな風に思ったのだろうかと思うことが多々あった。

 私が中学生のころ、女子の間でコバルト文庫が流行っていた。当時の人気作品を次々と読破した。その中で最も興味深く読んだ作品が、氷室冴子著の『なぎさボーイ』と『多恵子ガール』だった。

 思春期の男女が、同時期の前後する出来事を、お互いの視点からみた語り口でつづられた甘酸っぱい恋愛物語だ。男子と女子の視点でこんなにも違うものかと驚いたものだ。

 これを読んで以来、全ての人間関係において同じことが起きていると思うようになった。1つの出来事でも、立場が違えば、感じ方も違うのだ。

 ミツキは私という人間を母親に持って、どう感じていたのだろうか。私の言動は、ミツキの目にどう映り、心でどう感じていたのだろうか。

 いつか「葉野ミツキの育て方」のミツキ視点バージョンを彼自身に書いてもらいたい。

 

 おわりのおわりに

143のミツキの話を書いてきました。最後まで読んでくださりありがとうございました。
ミツキの高校生活編は、高校を卒業してからにしたいと思っています。

次回からは、その他こぼれ話を書いていきたいと思っています。
引き続き読んでいただけたらうれしいです。

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これから

 周りの人たちの優しさと、ミツキ自身の持ち前の明るさのおかげで、小学校までは楽しく幸せに生きてきた。

 ところが、中学校では学習内容が難しくなり、成績は底辺を横這い状態になった。今どき中卒という訳にもいかない。なんとか成績を上げてやりたい、成績不良ならば、せめて生活態度だけは正したい。それが義務教育中の親の務めと思ってきた。だが、どちらも一筋縄ではいかなかった。

 ぶつかることが多く、互いに心が疲弊した。ミツキは劣等感を感じるようになった。この劣等感をどう乗り越えていくかが、今後のミツキ自身の課題だ。そして、ミツキのサポートから身を引くことが私自身の課題だ。

 ミツキの中学校はとても落ち着いた学校で、優秀な生徒が多かった。部活や遊びで同じ時間を過ごしていた野球部のメンバーも優秀だった。そんな中で自分がこれから3年間通う高校のことを考えると、卑下した気持ちになるようだった。

 その気持ちは分からないでもない。しかし、中学2年生の11月の三者面談で「行ける高校がない」と断言されたときのことを思い出してほしい。あのときは、音楽が「1」で、他の教科もほとんどが「2」だった。そんなどん底から最終的には5も上げたのだ(6上がって、1下がった)。そして、高校の推薦基準に達したのだから、胸を張ってほしい。

 友だちの高校と比べる必要などない。現時点のミツキの能力が十二分に発揮できる高校に合格できたのだから。あとは、ミツキ自身がその高校でいかに努力するかにかかっているのだ。

 クラスには遅刻や欠席の多い子や成績不良の子がいるかもしれない。それに流されるか、自分はみんなとは違うと踏みとどまるか、大学受験で巻き返すと思うかは、全てミツキにかかっている。

 大学生になることへの憧れを持っているのは、良いことだ。ただ、勘違いしてはいけない。大学生という社会的ポジションへの憧れだけならば、やめてほしい。学ぶ意思のない者が大学へ入ったところで、ただの学費泥棒になるだけだ。もちろん、今までのような考えでは、そもそも合格などあり得ない。

 目標を持ったのならば、実現するための行動を自分自身でしなければいけない。

 私はミツキを応援し続ける。ただし、義務教育は終了した。もう今までのようなサポートは一切しない。私はここに宣言する。

  • 朝は起こしません
  • 勉強のサポートを終了します
  • 遅刻が多いようなら退学してもらいます
  • 成績不良なら退学してもらいます
  • 退学したら、住込みで働けるところを探して家を出てもらいます
  • 節水できないなら水道代を払ってもらいます
  • 我が家のルールが守れないなら家を出てもらいます

 厳しいようだが、本来これが当たり前。学生の本分をまっとうすべきだ。そして、親子であっても共に暮らすにはルールが必要だ。自分勝手など許されないのだ。

 ミツキを変えられるのはミツキしかいないのだから。自分を律して、甘えから脱却して欲しい。

 私はこれからもミツキを応援し続ける。しかし、もう甘えは許さない。家庭は小さな社会だ。

 スムーズにいかないなと感じることは多々あるだろう。しかし、ADHDだからといって簡単に許される世の中ではない。諦めず努力し続けなければいけない。例え、なかなかスムーズにいかなくとも、努力が見えれば、必ず協力してくれる人が現れるはずだ。

 

 自分を変えられるのは自分だけ

 自分が変れば周りが変わる

 

 大丈夫。必ずうまくいくよ。

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受動と能動

 すべてに完璧でバランスのとれた人はいないだろう。そういう意味では、誰でも何かしらの発達障害的傾向要素を持ち合わせている。

 発達障害について調べ始めてからというもの「この人のこういうところ、ADHDみたいだな。アスペルガーみたいだな」そんな風に心の中で人を分析するようになった。自分の周りにも、テレビで見る芸能人にも、それらしい雰囲気を持っている人はたくさんいる。そういう私も、子どもの頃のことから思い返してみると、ADHD要素を持ち合わせていたと自己分析している。

  • 字を書いていると気持ちが先走って思ったようには書けないときがあった
  • 小学3年生まで指しゃぶりしていた
  • 周りの友だちより、手先が不器用だった
  • 自分の身ひとつのスポーツは得意なのに、球技は苦手(特に大きいボールが苦手)
  • 集中力が切れると、おしりがムズムズして座っていられなくなった
  • 人の話を聞いているとき、気を抜くと意識が飛ぶ
  • 暗算が苦手
  • しゃべり過ぎてしまうことがある
  • 頭の中がいつも思考でいっぱい
  • 変わっているとよく言われる

 自分におけるこれらの状態に、小学1年生ころから私は自分で気づいていた。自分の得手不得手がはっきりしていて、音楽(楽器)、図工、家庭科の時間は特に苦痛だった。どうして周りの友だちのようにまんべんなく上手に出来ないのだろうかと、子どもながらに悩んでいた。

 努力が必要な私は「問題が起こる→問題解決に向けて、対策を練る→対策を実行する→解決する」というサイクルで行動することを身に着けた。

 問題が解決されるとうれしかった。だから問題が起きると、まず解決したときのことを想像した。すると、悩みながらもワクワクするのだった。

 また、楽天三木谷社長が「頭の中では同時に何本もの列車が走っている」と言っているが、私もその感覚がよく分かる。いくつもの事柄を同時進行で考えていることが常で、ものすごく脳が疲れる。頭の中でたくさんの言葉が何重にも行き交っているなんて、自分は多重人格者なのではないかと思ったことさえある。

 友だちからは「変わっている子」とよく言われた。どこがどう変わっているのか、あまり自覚はない。けなしているのだろうが、私は不思議と褒め言葉として捉えている。

 さて、ミツキと私。生まれ持った素質はどちらも似たようなものだが、決定的に違う点がある。受動的か能動的かの違いだ。

 私は、たとえ受ける立場のときでも、その意味を考え、自分に活かせる部分を探そうとしている。

 ミツキは、たとえ自分に不利益が降りかかったとしても受け入れてしまう「何でも受け入れちゃう系男子」なのだ。

 勉強のときもミツキはいつも受け身だった。問題集の見出しから答えを推測するばかりで、各単元の本質を理解しようとしない。うわべだけ勉強しても、総合的な問題ではどの単元の公式や文法を使ったらよいのか分からなくなる。

 勉強でも生活面でも、能動的であると臨機応変に対応できるようになると思う。

 人の話もただ聞いているだけでなく、相手が何を伝えたいのか、自分に活かせる部分があるかなど、意識して聞いてみる。

 ストレッチや筋トレも、体のどの部分に効いているのか意識する。

 スポーツの練習も、試合中のどんな場面の練習なのかを意識する。

 やりたくない、つまらないことにも、やる意味を見つけて意識する。

 その場しのぎの受け身はもう終わりだ。ミツキは、ミツキの人生の主人公なのだから。

 私は、ミツキにやる気に満ちた楽しい人生を送ってもらいたい。

 ただそれだけのことが、ミツキには伝わらない。

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