【家族の話】海岸堤防
父とは夜釣り以外にも、早朝の海へ散歩に行った。
30代から糖尿病を患っていた父の日課は、早朝散歩だった。平日は5時に起床し、1時間程近所を散歩してから出社していた。
また、休日の天気のいい朝は、社用車(本当はダメだけど……)で海へ行き、散歩をしていた。
高級社用車のカーステレオの音の虜になった私は、これにも目を付けた。
「お父さん、これからは海に散歩に行くときは私も連れて行って」
「ん? まあいいけど、朝早いぞ。起きられるのか?」
「起きる! でも、もし、一度で起きてこなかったら、待たずに出かけていいから。取りあえず声だけは掛けて欲しいんだ」
「分かった」
白黒ハッキリさせたい母にこんな頼み方をしたら「行くか、行かないかどっちかにしろ!」と怒鳴られるところだが、父はアバウトなのでとても助かる。
「それから、起こし方で1つお願いがあるんだけど、お母さんが起きないように静かに起こして欲しいんだ」
なかなか起きないことが母にバレると、エライことになるからだ。
例えば、夜間の勉強中に眠くなり、一旦寝てから勉強しようと時計をセット。寝るときは起きる気満々なのだが、ベルが鳴ってもなかなか起きられない、なんてことは誰にでも経験があると思う。
我が子らもこんなことばかり。最近すっかり眠りの浅くなった私は、すぐに目が覚める。あの子起きないなあ……とは思うけれど、よっぽどの危機的状況以外は、私が起こすことはない。本人の問題だからだ。
だが、母はこの状況を許せない。
ある朝、私があと5分と思いながらモゾモゾしていると、いきなり激しい音を立てて部屋の襖が開いた。あっ! と思った瞬間に布団をバッと剥がされ、直後にピッシャーンとビンタをくらった。
「朝からうるさいんだよ! サッサと起きろ!」と怒鳴る母の声が一番うるさかった。
音の出ない目覚まし時計はないものかと考えを巡らせたが見つかるわけもなく、それ以来、早朝に勉強するのをやめた。今はスマホのバイブ機能があるからいいけど……
父が私を起こす声で母が起きたら、父も災難を被るので、巻き込む訳にはいかない。
「分かった。任せろ」と父。
土曜の晩。
「明日は天気が良さそうだ。海に行くか?」
父が予め声をかけてくれたので、私は早めに布団に入った。
翌朝。私は、想像していなかった衝撃で目が覚めた。奈落の底に落ちたのかと思った。驚きで声も出ない。心臓が飛び出そうになり、即、目がバッキバキに覚めた。
父は、一言も発せず、私の両足首を掴んで引っ張るという恐ろしい方法で起こしたのだ。
「効果てきめんだったろう?」
「まあ、そうなんだけど。年寄りだったらショック死していたよ」
「じゃあ、次からはどうするかな」
「肩をトントンとか、普通でお願いしますよ。もし、起きられなかったら、海は諦めるし」
その日の車中は、音楽を聴くどころではなく、父の起こし方に爆笑しているうちに海に着いてしまった。
思い起こしてみると、早朝散歩のときは、車で音楽を聴いていなかった気がする。私の好む曲の雰囲気が朝に合わなかったからかもしれない。
大抵、父がかけたAMラジオを聞き流しながら、車窓からの景色をボーッと見ているうちに、海に着いた。
夜釣りのときの海よりも少し遠い場所にある海岸堤防が父のお気に入りだった。
市街地から海方面に車を走らせると工場地区に入る。早朝につき、まったく人けのない工場地区を抜けると、高くそびえ立つ海岸堤防一帯に辿り着く。
3㎞ほど続く海岸堤防には、ポツポツと数か所階段があり、海側へ行けるようになっている。階段の周りには、釣りや散歩をする人たちの車が止まっている。
私たちも同じように駐車し、階段を登って海側へ行く。海側の階段を降りると、まるで滑走路のように長い道が左右に伸びている。そして、その目の前には180度遮るもののない真っ青な海と空が広がっていた。
それなりに旅行し、いろいろな海を見たけれど、私はこの海岸堤防から見る海が一番心に残っている。父と何度も散歩した思い出の海だからだろうか。
父が亡くなる少し前。入院中の父にグーグルアプリから散歩した海岸堤防を探し、180度に広がる海のストリートビュー画像を見せた。
「あそこは、気持ちがいいからなぁ」
父はそう言って目をつぶると、小さくほほえんだ。