【家族の話】父とドライブ

 父の会社に一度だけ行ったことがある。確か小6の秋だったと記憶している。

 夕食後、父が忘れ物を取りに会社に行くことになり、なぜか私も同行した。

 父は大手車メーカーにドライバーとして勤務していた。家近くの駐車場に止めてある社用車で、担当役員宅に毎日直接迎えに行く。

 会社上層部の役員を担当しているだけに、車は自社最高級車だった。その最高級車に内緒で初めて乗らせてもらった。

 当時の私は、3つ年上の兄の影響で佐野元春の曲を好んで聴いていた。思いがけずドライブできることになり、兄のステレオラックから佐野元春のカセットテープをこっそり拝借した。

 助手席に座り、早速カーステレオにカセットを差し込み、プレイボタンを押す。テープが回り始めて5秒後、今まで耳にしたことのない重低音が響き渡り、体がしびれた。

 数か月前、兄は成績が上がったご褒美にステレオセットを買ってもらっていた。モノラルの音しか知らない私に、ステレオの音は革命的だった。兄の外出中はスピーカーの間に座り、音の厚みを楽しんでは最高の気分に浸った。

 ところが、カーステレオの音は、それまでの私の最高の気分を軽々と超えてきた。目を閉じると、まるで目の前で佐野元春が歌っているように感じる。

 アルバム『SOMEDAY』には11曲収録されていて、ちょうど片道で全曲聴き終わった。その間、私は聞き惚れていて一言も発しなかった。父も一言も発しなかった。

 会社に着いたと言われて降りた場所は、私がイメージしていた会社とは違った。広い駐車場の奥に平屋の建物があり、父はその建物に入っていった。中は壁沿いにロッカーが並び、真ん中に大きなテーブル、端の方に簡易的なキッチンと食器棚があった。ドライバーの休憩室なのだろう。

 テーブルの上にQuick1が1つあった。Quick1とは、少し前に新発売されたカップ麺だ。それまでのカップ麺は調理時間が3分のところ、これは1分で食べられるという品で、ザ・タイガースがCMをしていた。

 食べてみたいと思ったときには父はもうドア付近にいて、早く出るようせかされた。

 行きは一般道だったが、帰りは首都高を使った。

 6曲目は、アルバム名と同じ『SAMEDAY』という曲だ。その曲が始まったとき、いきなり目の前に東京タワーが出現した。車窓から手が届きそうなほど近く感じる。

 なんという圧倒的な美しさなのだろう。ライトアップされた東京タワーと車内に響きわたる『SOMEDAY』は、私の心の中でピタリと1つに重なった。

「いい曲だな」と父が言った。

「うん」

 その後私は、巻き戻して『SAMEDAY』を何度も聴いた。もう東京タワーは見えなかったが、曲を聴けばいくらでも見える気がした。

 家に帰ってから、ふと、父は何を会社に取りに行ったのだろうかと思った。帰りも手には何も持っていなかった。

 今思うと、小6の秋と言えば私の心がささくれていたころだ。何か私に話したかったのかもしれない。

 しかし、結局父が発した言葉は、「いい曲だな」だけだった。お父さんらしいなと思う。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へ
にほんブログ村