【こぼれ話】自主性③

 私が小3ときの国語の教科書には「走れメロス」が収録されていたと記憶しているのだが、定かではない。というのも、ネット検索した原文を読んでみると、小3で習うには難しすぎる気がするのだ。更に、記憶している内容と少し違う。カメレオンのように、人の顔色をうかがっては意見を変える少尉が出てきたような気がするのだ。

 結局何の物語かは不明だが、その文章中にあった「理不尽」という言葉の意味を辞書で引いたことにより、当時の私は心のモヤモヤが一気に晴れた。

 

 その日の国語の授業は、2時間連続だった。1時間目は教科書を使った物語の読解授業で、2時間目は辞書引き学習だった。辞書の引き方を教わったあと、1時間目の物語の中から各自調べたい言葉を引くよう指示された。私は「理不尽」という言葉を選んだ。

 

理不尽 道理にあわないことを無理に押しつけること

道理  正しい筋道。もっともなこと。

               (小学館常用国語辞典)

 

 道理の意味もよく分からないので併せて引いてみたが、すぐにはピンとこなかった。しかし、教科書の文章の前後と読み併せるうちに、自分に頻繁に起こる感情と合致していることに気付いた。

 母に叱られるたびに私の心にモヤモヤするこの感情。それこそが「理不尽」なことが起きたときの感情なのだ。

 初めは具体的に母の言動のどの辺りが、ということまでは分からなかったが、年齢を重ねるごとに私なりの考えを深めていった。

 母はいつでも一生懸命に生きている。それは良いことなのだが、その一生懸命さが独りよがりなのだ。自分が良いと思ったことは、何が何でも押し通す。それが、子どもの年齢や持って生まれた資質とかけ離れていてもだ。

 そして、思うようにいかなければ、怒鳴り、手を上げ、追い出し、無視をする。

 子どもを諭す言葉をかけることはない。だから、私は母が何を怒っているのかよく分からなかった。

 母の怒り方のパターンは大体決まっていて、まずは「ピシャンだよ」と怒鳴りながら頬を叩いたあと、体中を叩き続ける。「痛いよぉ」と言って泣くと、「こっちの手だって痛いんだ」と言う。そして家から追い出し、夜まで放置。家に入れてもらえたあとは、無限ループ説教が始まる。ここで終わる日はラッキーで、下手すると1週間から最大で1か月間の無視の刑に処されることもしばしば。そして最後に、とにかく過呼吸になるまで泣いて謝っていると、突然母の機嫌がよくなり、やさしく抱きしめられる。そして、決まってこう言うのだ。

「怒られているうちが華だよ」

 そう言われると、私は愛されているのかなと思うのだが、なんだかモヤモヤした。

 3つ上の兄のこともよく観察するようになった。兄も私と同じだったが、兄が叩かれた記憶はあまりない。それは、私が気にとめるようになったころには、兄はもう中学生だったからだと思う。母は私のことも中学生になってからは叩かなくなった。

 その理由は後に分かった。ニュースで家庭内暴力を取り上げていたときのこと。

「小さいときは猫かわいがりして、大きくなってから叱っても、子どもは親の言うことはもう聞かない。子どもが小さいうちは叩いて親の言うことを聞かさないと。子どもの体が大きくなってからでは危ない」

 母は私に子育ての極意と言わんばかりの勢いで言ってきたが、私には理解できなかった。

 叩かずに言葉で諭すことはできないのだろうか。

 私は母に、問題点をピンポイントで諭して欲しかった。いろいろと怒鳴り散らすので、何を叱られているのか分からないのだ。

 そんな母を見て、自分は人に伝わる話し方ができる大人にならなくてはと思った。私はできるだけ読書を心がけた。

 「理不尽」の意味を知ってからは、心のモヤモヤが晴れた。辛いときは「なるほど今私に理不尽なことが起きているのだ」と客観視するとで気が楽になった。

 この言葉が存在するということは、昔から世の中で頻繁にあるということだ。逆らわずに受け流そう。私は養育されている立場なのだ。逃げだそうにも逃げ出せない。今はじっと我慢のときだ。小学6年生になるころには、そう思えるようになった。

 母が母なりに一生懸命だったことは理解しているし、心から感謝もしている。

 ただし、私が母にされて嫌だったことは、絶対に自分の子どもにはしない。これが私の子育てルールの根幹だ。

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