【こぼれ話】100ひく90は

 リオが小学1年生のこと。リオは浴室に入っても自分では頭も体も洗おうとせずに、いつも湯気で曇った鏡に絵を描き始める。私に今日一日のできごとを絵で説明してくれたり、自分で考えたお話しを絵とともに聞かせてくれたりする。それを聞きながら私がリオの頭の天辺から足の爪の先まで丁寧に洗う。小学1年生なのだからそろそろ自分でやるべきと思いつつも、話しを聞いているうちに洗ってあげてしまう。

 ある日のこと、いつものように話しに耳を傾けながら頭を洗ってあげていたが、聞き捨てならない話の展開に手が止まった。

「このお店の行列は100人、こっちのお店の行列は90人。その差は1でした」

「リオちゃん、100ひく90は1じゃないよ」

「あ、そうか。えーとなんだったかな」

 以前から気になっていたのだが、リオもかつてのミツキのように数の概念がしっかりと理解できていないようなのだ。普段の学習の中では問題視するほどではないのだが、繰り上がりの足し算や繰り下がりの引き算で、何問かに1問は手を使って答えを導き出している。繰り返し演習すればそのうちできるようになると思って様子をみてきたが、あとひと月で2年生になるというこの時期にこのつまずきは何とかしたい。私の教えたいスイッチがオンになってしまった。

「リオちゃん、90から100まで数をかぞえてごらん」

「91、92、93、94……100」

「どうだった? いくつあった?」

「10」

「そうだよね。90から100までは10あったよね。ということは、100ひく90はいくつかな?」

「わからない。19かもしれないし、9かもしれない」

「ちょっと、なんでそんなおかしな数字が出てくるの?」

 すっかり表情の暗くなったリオの頭と体をぞんざいに流し、湯船に2人で入った。

「あのね、90から100までは10ありました。今ここに出てくる数字は90と100と10だけだよ。100ひく90はいくつ?」

 表情をこわばらせ、私から目をそむけようとするリオの顔を強引に私に向けた。

「ママの話しをしっかりと聞けば分かるはずだよ。リオはママの話しを聞こうとしないから分からないの。よく見て。ママの人差し指が100。中指が90。薬指が10。この3つしか数字は出てこないよ」

 私は指を1本ずつ折り、薬指をよく見せながらリオに詰め寄った。

「100から90取ったら何の数字が残る?」

 算数と無関係の無意味な誘導質問だと頭では分かっていたが、どうにも止まらなかった

「10でしょ!」

 顔全体をパンパンに膨らませ、怒りに満ちた顔のリオは、次の瞬間ザブーンと湯船に潜った。息の続く限り潜り、水中で暴れ、苦しくなると一瞬だけ水面に顔を出しては大きなしぶきをあげてまた水中に潜った。何度も何度も。

 さすがに疲れたのか潜るのをやめると、両目から洪水のように涙を流し、くしゃくしゃのなんとも悲しげな表情で言った。

「今日もママに楽しいお話を聞かせてあげたかったんだ。なのに、ママは急に算数の問題を言いだして! リオちゃんはそんな問題やりたくなかった。今はそんな時間じゃないのに。ママは、ママの話しをちゃんと聞かないからダメっていうけど、ママが先にリオちゃんの話しを聞くのを止めて、自分の話しに変えちゃったんじゃないか。20たす30は50、100たす100は200、500たす300は800だってちゃんと分かるんだ。それでいいじゃないか!」

 だいぶ簡単な計算問題に置き換えたなとは思ったが、それを言っては元も子もない。

「そうだね。リオちゃんの言う通りだね。先に話を遮ったのはママの方だね。本当は楽しいお話をしたかったんだよね。ママが悪かった。リオちゃんごめんね。リオちゃんはもうこんなに自分の気持ちをしっかり言えるようになっていたんだね。ママ、驚いた。とても立派だね」

 人見知りが激しく、いつもシクシクと泣いていた子が。公園で大勢の子どもたちが群がる滑り台に並んではみたものの、後ろからどんどん順番を抜かされ、まるで係員のようになっていても何も言えなかった子が。舌ったらずで、いつまでも赤ちゃん言葉が抜けなかったり、じゅうたんを「のんたん」と言い間違えたりしていた子が。

 リオがこれほどまでに自分の気持ちをストレートに吐き出せる子とは思ってもみなかった。「100ひく90は10」というあたりまえの答え以上のものを私に気付かせてくれた。

 ふと、リオを見ると、さっきの涙はどこへやら、晴れやかな自信に満ちた表情になっていた。

 とは言うものの、やはり数の概念のことは気になった。後日、かつてミツキに数の概念を教えたときに使った「つくばのトロール先生考案の数タイル」を棚の奥から引っ張り出し、リオにも改めて教え直した。

 リオもすぐに理解を深めたのでホッとした。

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