【こぼれ話】因果応報①
ミツキが幼稚園年長に進級して間もない、ある日のお迎えのときのこと。私が園に着くと園児の引き渡しは大方終了していて、教室内に園児は数人しかいなかった。
できるだけ早く迎えに来て欲しいといつも言われているので、申し訳なさそうな顔で教室内を見渡したが、ミツキはいなかった。
「あ、葉野さん。ミツキくんは職員室にいるんです。一緒に行きましょう」
なんだ、なんだ。どうした、どうした。先生の後に付いて職員室に入ると、窓際の椅子にミツキがちょこんと座っていた。
そして、その顔は鼻から唇、顎にかけて擦り剥けていた。ギョッとして見ていると、その隣には同じクラスのNくんとお母さんがいて、2人は顔も上げられないほど泣いていた。
友だち親子が泣いていて、ミツキは怪我をしていて座っている。なんだ、なんだ。どうした、どうした。私は驚きすぎて思考がまとまらない。
「お迎えの時間の少し前のことなんですけど、園庭でミツキくんが遊んでいたところ、Nくんが後ろからミツキくんを突き倒したんです。不意打ちだったので地面に顔から倒れてしまいました。すぐに冷やして今は痛みも柔らいで、気持ちも少し落ち着いたところです」
先生が私に耳打ちするように言った。
「ああ、そうだったんですか」
このとき私は何よりも先に、ミツキが加害者でないことに安堵してしまった。
ところで、なんでこの親子は泣いているんだ?
「Nくんには、危険なことで、いけないことだと話をしました。このようなことはもう二度とないようにこちらも気をつけます。申し訳ありませんでした」
「はあ」
「ただ、Nくんがミツキくんを押したのには訳があって……」
うわ、なんかきた。
「午前中の園庭遊びのときに、数人でタタカイごっこをしていた様で。そのときに、Nくん対ミツキくんを含む数人だったそうなんです。Nくんはその恨みでミツキくんを押したと言っているんです」
そういうことか……。では、仕方あるまい。
ってなるかー! なんだか急に腹が立ってきた。
「Nくんはおとなしい子ですから、Nくん自身も事の次第に動揺しています。お母さんもショックを受けてしまって、ああしてずっと泣いているんです」
「はあ」
え? だから、何?
「あ、どうぞ、中へ。ミツキくんのところに行ってあげてください」
私は先生にもNくん親子にも何か言いたいのに適切な言葉が見つからない。
「ママ、前歯が痛いよう」
唇も腫れ上がっていた。
「痛そうだね。今日はもう帰って、お家で冷やそう。すぐに治るから大丈夫だよ」
立ち上げって振り向くと、Nくん親子の姿はもうなかった。
え? そういうもの? 確かに初めにNくんに嫌な思いをさせたのはミツキかもしれない。でも、嫌な思いをしたら、人を突き飛ばしていいのか? そして、ミツキの方が分が悪いこの雰囲気はいったいなんなんだ?
疑問はたくさんあるが、まずはミツキのことが最優先だ。
家に帰って少し落ち着いてからミツキと話し合った。
「ミっちゃん、痛かったね。びっくりしたよね。かわいそうに。早く治りますように」
「前歯が痛いんだけど、とれたりしない?」
前歯を優しく触ってみる。
「グラグラしてないし、大丈夫だよ。Nくんはなんでミっちゃんを突き飛ばしたと思う?」
「ミっちゃんを恨んでいたからだ」
「恨まれるようなことしたの?」
「わかんない」
「午前中の遊びのときに、Nくん対大人数だったの?」
「うん。でも、ミっちゃんだけが悪いの?」
「ううん。そんなことはないよね。でもね、きっとミっちゃんが目立っていたんだと思う。ここ最近、ママはミっちゃんに何度か注意してると思うんだけど。仲良し4人組で遊ぶときも、よく3対1になってるよね。そして、ミっちゃんはいつも多い人数の方にいるよね。今回のことは、そういうことの積み重ねかもしれないね」
ミツキはまっすぐな目でこちらを見ている。
「Nくんは1対大人数になって、嫌な思いをしたと思うんだ。ミっちゃんは、自分1人対たくさのお友だちだったらどんな気持ちになるだろうか」
「嫌だ。楽しくない」
「そうだよね。そう思うのなら、自分がやられて嫌な事はやるべきではないんだよ。嫌な事を人にすると、嫌な事が返ってくるんだよ。反対にうれしい事をしたらうれしい事が返ってくる。ミっちゃんはうれしい事と嫌な事どちらが返ってきて欲しい?」
「うれしい事」
「そうだよね。だったら人にもうれしい事をしなければいけないよ」
「わかったよ」
「この世の中は、良いことも悪いことも必ず自分に返ってくるようになっているんだよ。こういうことを難しい言葉で『因果応報』って言うんだよ。大昔から良いことも悪いことも自分に返ってきていたからこの言葉が生まれたんだよ。なぜかはママにもわからないけど、不思議とそういう仕組みになっている。今はまだミっちゃんには難しいけど、いずれ分かるときがくる。だから、頭の片隅に入れておいてね」
ミツキにとっては辛い出来事だったが、良い教訓となったことだろう。