ミツキとじいじ

 ミツキが幼稚園年長の年に、実父は脊柱管狭窄症の手術を受けた。持病である糖尿病との兼ね合いが悪く、手術は難航した。
 退院後も、予想とは違う現実が待っていた。無口だが優しく朗らかな実父から笑顔が消えた。ミツキが小学2年生になるころには、20キロ以上体重が減り、38キロの細い体では立つのもやっとだった。私は実父がミツキと毎日遊んでくれていたころを思い出しては、そのころに戻りたいと思った。

 ミツキが小学4年生のころ、実父はうつ病を発症し、起きているだけで辛そうだった。

 そんな実父の唯一の楽しみが、家族麻雀だった。私も子どものころ、お正月は家族麻雀を楽しんだものだ。ミツキも小学4年生から徐々に覚え始め、麻雀は実家に行く楽しみの1つになっていた。

 ミツキの麻雀は、牌を積もってから捨てるまでの時間が長かった。大人たちはじっと待つ。牌の組み合わせを明確にするために、3つあるいは2つの牌ずつのかたまりで置くので、手の内がバレバレだった。しかし、運が強く、いきなりロンするので、侮れないのだ。

 ミツキは、中学に入学してからは部活が忙しくてなかなか祖父母に会いに行けなかった。中学3年生の9月半ば、私が実家に電話をすると、珍しく実父が電話を取った。

「お父さん、元気そうだね。ミツキの中間試験が終わったら、みんなで行ってもいい?」

「いいよ。みんなでおいで。待ってるから」

「久しぶりに麻雀しようよ」

「そうだな。楽しみに待ってる」

 思いのほか父が元気だったので、うれしかった。それと同時に違和感が走った。

『うーん、どうかな。お母さんに確認して』

 いつもの実父ならこう答えるはずだった。実父は、実母に長年介護をしてもらっていることに負い目を感じていた。だから、私たちの訪問によって実母の負担が増えることを懸念して、いつもなら直接実母に確認するように促すのだった。実父が自分の気持ちを出すことは、珍しかった。

 秋分の日、実父はいつになく元気だった。父母と夫とミツキは昼過ぎから夕方まで、たっぷり4時間も麻雀を楽しんだ。

「いやー、今日はミツキに全部持ってかれた。あの子強いね」

 2階にあがってきた実母が、悔しそうに言った。1階の麻雀部屋に降りていくと、ミツキが点棒を数えていた。

「104,100点だ。すごいだろ。全局勝ったぞ」

「えー、全局? すごいね」

「ミツキ、なんかやたらと強いんだよ」

 夫も驚いている。実父は、それをニコニコしながら眺めていた。

 10月3日の夜、実父が倒れて病院に搬送されたと実母からメールが来た。すぐに電話をしたが一向につながらない。22時を過ぎたころやっと連絡が付いた。ひとまず容態は安定したとのことだったので、翌日病院へ行った。

 33キロまで体重の落ちた父は、1人で寝返りをうつこともできず、ただずっと静かに眠っていた。

 1週間後、容態が悪くなり集中治療室へ。慌てて駆け付けると、実父は起きていた。血色もよいが、少し様子がおかしい。現在と過去を行き来しているようだった。

「羽田に行くんだけど、飛行機のチケットが見当たらなくて。探してくれないか」

 会社勤めのころと現在とが交差しているようだった。

 また、夢の中で挨拶回りをしているようで「さっき、兵庫のお父さんが来てくれたよ」と言った。兵庫のお父さんとは、夫の父のことだった。この日の実父は、饒舌だった。

「そうなの? 分かったよ。お父さん、疲れるといけないから少し休んだら」

「そうだな、寝るとするか。ああ、そうだ。この前のミツキの麻雀はすごかったな。今まで麻雀の強い人ともやってきたけど、あの手はなかなか出来ない。あれを見て(今までのミツキへの心配が)全部チャラになった。もう何も心配することはない。本当によかったよ。安心した」

「お父さんそんなにミツキが心配だったの?」

「何やってもダメで、滅茶苦茶だったからな」

 父は、いつも「ミツキはスペシャルだ」と言っていたが、本当は心配していたのだ。

 その後、父の容態は一旦落ち着いた。落ち着いたが、家に帰れる状態ではなかった。しかし、治療をしない限り、病院には1か月ほどしかいられない。その後、2回転院をした。3番目の病院に入院中、ミツキが私立H高校の単願推薦が確定したことを報告すると「よかったな」とうれしそうに微笑んだ。

 年が明けて1月10日、父は息を引き取った。5日後に執り行われた葬儀の日は、H高校の単願推薦願書提出日だった。葬儀に間に合うよう朝早くに家を出たミツキは、受験番号1番を受け取り、早々に葬儀場に到着した。

 実父もほっとしたことだろう。

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