葉野ミツキの育て方

そんなトリセツ、あったらいいのに

みなさんのおかげで

 保護者会の数日後、野島さんとランチをした。私が養護の宮本先生と面談の話をしていたことで、野島さんはとてもミツキの体を心配してくれていた。

 私は極限られた人にしかミツキの現状について話したことがなかった。

 それまで私が話した人とは、ミツキの小学校の担任の先生3人、小中学校のスクールカウンセラーの先生3人、中学校の先生4人、病院の先生2人、そらから、夫と夫の母。全部で14人だ。そのうち12人は、先生方なので、本気の相談窓口だ。
 それ以外は夫と夫の母だけで、仲の良い友人や自分自身の両親にも話したことがなかった。

 友人(ママ友を含む)には、話すつもりはなかった。ミツキが迷惑を掛けているのであれば、事情を話すところなのだが、特に迷惑はかけていないのだ。少し変わっている子だなとは思われていても、そのキャラが受入られていた。問題が生じていいないのに、わざわざ告げる必要はないと思った。また、間違った伝わり方でミツキの耳に入ることや、噂的に広がることを懸念していた。

 私は、自分の両親にも話さなかった。本当は実父に話したかった。ミツキが幼いころから私と同じ目線でミツキを見ていたのは、唯一実父だけだったからだ。実父に話さたらどんなに心強かっただろう。しかし、実父は、ミツキが小学校に入学したころから体調を崩し始めたので、心配を掛けたくなかった。だから実母にも話さなかった。

 夫は理解しようと努力をしているが、頼れる存在にはならなかった。夫の母は、私の心をいつも癒してくれた。私の愚痴を聞き続けてくれる、名カウンセラーだった。

 ミツキが野島くんに話したことで、私も野島さんに話そうという気持ちになっていた。野島さんとはミツキの小学校に入学以来、特にレッドウィングスに入部してからずっと懇意にしてきたのだ。

 食後のコーヒーを飲みながら、野島さんに話をした。小学1年生からミツキと野島くんはともに育ってきた。一緒にキャンプに行き、レッドウィングスに入部し、たくさんの時間を共有し、野島くんはミツキの心の支えだった。そんなミツキが、自分にADHDという診断がついてやり場のない気持ちになったときも、野島くんは支えてくれた。

「ミツキが、大地くんに検査を受けたことや診断名を話したらね、大地くんが『そうか、おまえもいろいろ大変だな。まあ、お互いがんばろうぜ』って言ったんだって」

「軽!」

「軽くていいんだよ。それがよかったんだよ」

 野島さんは、話を聞きながら始終驚いていた。野島くんからは、何も聞かされていなかった。「中学に入ってから、大地は何も話さなくなった」と野島さんは言ったが、思春期というだけではないと思った。ミツキには、軽い口調で励ましながらも、正面から真摯受け止めて、心にしまっておいてくれたのだろう。

 野島さんは、栄養療法を応援してくれて、月に1回ペースで続けている私たちのランチ会のメニューも小麦と乳製品フリーの店探しに付き合ってくれた。

 また、野球部へ差入れの菓子類を選ぶときも、いつもミツキを気遣ってくれた。ミツキは栄養療法に納得しているから、みんなと同じものが配られても自分自身で選り分けるから心配無用と何度伝えても、気遣い続けてくれた。そのおかげで、私たち親子は約2年間苦労無く栄養療法を続けることができた。

 もう1人、ミツキの食を支えてくれた人物がいた。ミツキたち野球部員が「野球部の母」と慕う、恭介ママだ。野球部の同級生5人はとても仲が良くて、その中の黒澤恭介くんの家に集まることが多かった。黒澤くんの家はとてもウェルカムな家庭で、居心地が良いのだそうだ。ときには恭介ママが料理を振る舞ってくれた。暗くなったらおいとまするようにとミツキに口酸っぱく忠告するも、図々しく甘えさせてもらっていた。

 恭介ママに日頃のお礼とお詫びを伝えつつ「小麦と乳製品のアレルギーだと判明した」とだけ説明し、今後は遅くまでお邪魔しないようミツキに徹底させると伝えた。

 しばらくは、時間に気を付けて帰宅していたが、ある日ご馳走になって帰宅した。恭介ママがミツキも食べられる食事をわざわざ作ってくれたのだった。その後も、ミツキの食事を気にかけてくれた。更に、バレンタインデーには、小麦不使用のお菓子も作ってくれたのだった。

 ミツキの周りの人は、なんていい人ばかりなのだろうか。どうしてこんなにも良くしてくれるのだろうか。ときに親として、1人の人間として、感謝しかできない自分を情けなく感じるほどだった。

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