【家族の話】散歩中の会話③

 高1の冬のある日曜日、朝から母と私は揉めた。原因は覚えていないが、私はそのとき初めて母に暴言を吐いた。母の仕返しが怖かったり、中学受験の失敗を引け目に感じたりしていた私の初の暴動だった。

 私がいきなり激しく言い返し、反抗期(遅 ! )丸出しで怒鳴り散らしたので、母は少したじろいだ。母は急ぎの用で外出せねばならず、言い返す間もなく慌てて出かけていった。

(ついに言ってやった……)

 私は気分が高揚した。

「海でも行くか?」突然父が言った。

「え? あ、うん……」

 大抵前夜に声を掛けてくるが、その日は急に言うので少し驚いた。

 

 いつも通り車の中は、AMラジオの音だけが鳴っている。車はコンビニの前で止まった。

「今日は朝飯まだだから、なんか買おう」

 いつもなら8時半前後に帰宅後、母が作った朝食をいただくのだが、その日は母が外出のため朝食はなかった。

 海に着いてから食べるのかと思いきや、コンビニの駐車場で即食べ始めた。

「血糖値が下がったら大変だぁ」

 父は空腹を我慢出来ない。いつもおどけて糖尿病のせいにするが、本当だろうか。

 

「さっきは、がんばってたな」

 あっという間にサンドウィッチを平らげた父が話し出した。

「え?」

「ママに、だよ」

「ああ……。まあね」

「で、どうだった?」

「どうって……。だってお母さんの言うことメチャクチャなんだもん。いつもそうだよ。世間体重視でさ」

「それを上手く伝えられた?」

「言えてない。でも今日は初めて私がムカついているんだってことは言えたよ」

「いちいちうるさいんだよ! っていうヤツ?」

「うん、まあ、他にもいろいろ言った」

「どんな気持ちになった?」

「ちょっとスッキリした……」

「ちょっとだけ? じゃあ、あとは?」

「なんか、あんなこと言わなきゃよかったなって、イヤな感じ」

「そうか……。なら、後でイヤな感じになるような言葉はやめた方がいいんじゃないか?」

 父の言葉にいたく反省した。感情的になって声を荒げたところで何の解決にも至らないどころか、スッキリするのはほんの一瞬だけで、後味の悪さだけが残る。自分の主張を相手の耳に届かせるには冷静さが必要だ。

 

 中学生までは母は絶対に逆らえない、怖い存在だった。どこの家も同じで、子どもは弱い立場なのだと思っていた。

 ところが、高校生になり視野が広がると、どうやら母は友だちの母親とは違うと感じるようになった。母は考えを押しつける支配者だが、友だちの母親は子どもと共感し合う理解者にみえた。

 私にとって最も尊敬できない人間、それが母だった。

 

 19歳の秋のある晩、いつものように母が父の親族罵倒が始まった。その日に何かあったわけではない。昔のことを思い出してギャーギャーワーワー怒り狂うのだ。私はこの不毛な時間が、最も不愉快だった。

 苛立ちながら寝たせいか夢見が悪く、早く目が覚めてしまった。リビングに行くと父も起きていて、急遽海岸堤防散歩に出かけた。

 

 海に着き、しばらく歩いた後、私は昨晩寝ながら考えていたことを父に話した。

「お父さん、お母さんと離婚してもいいんだよ。あんなにおばあちゃんのこととか罵倒されたらイヤにならない?私はおばあちゃんの悪口とか言われたくない。昔何があったか知らないけど、お母さんしつこ過ぎるよ。今、問題が起きているわけでもないのに、おかしいよ。離婚したら、私がお父さんのご飯とか全部やるから。
 私はお母さんみたいに、常に誰かを貶めようとしている人間と一緒に住むのはもうイヤなんだよ」

「そうか。うーん。ママはね、誰よりも人間らしい人間なんだよ。喜怒哀楽がむき出しなだけなんだ。怒りや悲しみのときに周りを巻き込んで大変だけど、その分喜んでるときや楽しんでるときのママは、周りも明るくするだろう。だからさ、ママのいい部分をもっと見てあげようよ」

「私にはお母さんのいい部分は見付けられない。お母さんは喜と楽より、怒と哀の方が多いし」

「そこにこだわらなくても他にいいところいっぱいあるだろう」

「いっぱい? え? どこ? なに?」

「ママの料理はおいしいだろ」

「あぁ……」

 父は単に胃袋を捕まれた男だった。結婚生活とは案外そういうものなのだと知った。

 

 

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【家族の話】散歩中の会話②

 高3の夏は、父との海岸堤防散歩に頻繁に行った。部活も引退し、付属短大志望予定の私は、のんびり日々を過ごしていた。その後、急に気が変わって他短大を受験することになり、慌てることになるのだけれど……

 5時過ぎに出発し、6時前には到着。1時間半ほど散歩し、8時半前には帰宅。毎回だいたい同じ時刻だったが、週を追うごとに季節の移り変わりを感じた。気温だけでなく、海と空の色や様子、風の匂い、季節の花。小さな移り変わりを見逃すまいと、全身で感じながら、ただ黙って歩く。父とは、この黙って歩くという贅沢な時間を心地よく過ごせるところがいい。

 水平線の少し手前に貨物船が見えた。

「双眼鏡で見てみたいな」

「こうすると、少し見えるぞ」

 父が両手で双眼鏡の筒の形を作り、ウソみたいなことを言う。父は私の発言や問いに必ず応えるが、ウソっぽいテキトー発言が多い。

「うわ! ホントだ。なんかちょっと見える気がする」

 たまに本当のことを言う。

 

 翌週、翌々週と散歩に行けないうちに、暑い中にも秋風を感じるようになった。

 いつものように黙々と散歩をしていると、テトラポッドの5m程先の海から突き出した1本の木柱に、カモメがとまっているのが見えた。

「そう言えば、カモメの顔をしっかり見たことないなあ」

 私はそう言いながら、手の双眼鏡で見ようとすると、

「今日は持ってきたぞ」

 父が、いつも着ているポケットだらけのベストから双眼鏡を取り出した。

「えー! お父さん持ってきてくれたの? 」

「おもちゃだけどな」

 十分しっかりと見えた。

「けっこう目が鋭いよ。うわ、こっち向いた」

 私が実況中継をしていると。父はカメラを取り出し、シャッターを切っている。

「お父さん、拡大して撮っといてねぇ」

 双眼鏡は海岸堤防散歩の欠かせないアイテムとなった。

 

 次に散歩に行くと、市街地から工場地区に入った途端、空き地やちょっとしたスペースのあちこちが背の高い黄色い花だらけになっていた。海岸堤防のコンクリートのちょっとした隙間にまで生えている。

「なんかものすごく勢いのある花だね。黄色が濃くてキレイだけど、力強すぎてちょっと怖いな」

セイタカアワダチソウっていう花だ」

「確かに背が高いね」

帰化植物だよ。外国からの船の荷物に種が付いていて繁殖したんだ。すごいな」

 この年は、11月半ばまで海岸堤防へ行ったが、セイタカアワダチソウはずっと力強く咲いていた。

 それまで私にとって秋の代表的な花は、コスモスだったが、この年からセイタカアワダチソウになった。コスモスの方が圧倒的に可憐で好きだが、セイタカアワダチソウの力強さに気持ちを占領されてしまった。

 

 冬の初め、全て撮りきったフィルムを父が現像してきた。楽しみにしていたカモメの写真を探したが、ない。

 あったのは、カモメを双眼鏡で眺める私の写真だった。

 

「お父さんは、よっぽど私が好きなんだな」と思った。

 

 

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【家族の話】散歩中の会話①

 父との海岸堤防散歩は、私が中学生から25歳で独り暮らしを始めるまで続いた。続いたといっても、そう都合が合うものでもなく、回数でいったら20回程度だろう。

 私は普段はおしゃべり好きだけれど、父とはほとんど会話をしない。何もしゃべらないのが心地いいのだ。

 父に起こされて、車に乗って、海を見ながら散歩して、また車に乗って家に帰るまで、基本的には必要最低限の会話のみだ。

 だからこそ、父との数少ない貴重な会話は、よく覚えている。

 

 春、海を見ながら歩いていると、テトラポッドのすぐ先を魚の大群がグイグイ泳いでいるのが見えた。父に聞くと、それがボラになる一歩手前の魚だと教えてくれた。

「ボラは、稚魚をオボコっていって、成長するとイナッコ、スバシリ、イナ、ボラになって、最後にトドって名前になる出世魚なんだよ」

「あー! トドって家にある魚拓の魚じゃん」

「そう、あれ釣るの重くて大変だったんだぞ」

「お父さん、出世魚の一番大きいの釣ってたんだね。やるじゃん」

出世魚の一番最後だから、トドのつまりって言うんだよ」

「おぉ、なるほどぉ」

「今泳いでいるのがイナで、鯔背(いなせ)の語源だよ。水面から魚の背中が出ているのが、粋な男の背中みたいでかっこいいだろう?」

 私は鯔背な男たちの背中を思い浮かべた。お祭りで見かける上半身裸(クールポコ。の小野まじめさんみたいな)で威勢のいい男性が、徒党を組んで歩いている後ろ姿。

「おぉ、確かに! 」

 

 月日は流れ、ミツキやリオとの散歩中、我が家の目の前を流れる運河にも春先になるとイナの大群がやって来ていることに気付いた。私は子どもたちにも鯔背の語源を自信満々に説明した。

 

 しかし、今日間違いに気付いてしまった!

 文を書くに当たり、念のため鯔背を調べてみた。

 

「イナ」は若い衆の月代(前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた部分)の青々とした剃り跡をイナの青灰色でざらついた背中に見たてたことから、「いなせ」の語源とも言われる。「若い衆が粋さを見せるために跳ね上げた髷(まげ)の形をイナの背びれの形にたとえた」との説もある。

    出典: 『ウィキペディアWikipedia)』

 

 あはは😆 なんかちょっと違う。

 ミツキとリオにも訂正しておかないと……

 追加の思い出ができたなあ。

 

 お父さん、ちょっと違ってたよ~。でも、当時の私の理解力が足りないだけだったら、ごめんよ。

 

 次回も、散歩中の会話です。

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【家族の話】海岸堤防

 父とは夜釣り以外にも、早朝の海へ散歩に行った。

 30代から糖尿病を患っていた父の日課は、早朝散歩だった。平日は5時に起床し、1時間程近所を散歩してから出社していた。

 また、休日の天気のいい朝は、社用車(本当はダメだけど……)で海へ行き、散歩をしていた。

 高級社用車のカーステレオの音の虜になった私は、これにも目を付けた。

「お父さん、これからは海に散歩に行くときは私も連れて行って」

「ん? まあいいけど、朝早いぞ。起きられるのか?」

「起きる! でも、もし、一度で起きてこなかったら、待たずに出かけていいから。取りあえず声だけは掛けて欲しいんだ」

「分かった」

 白黒ハッキリさせたい母にこんな頼み方をしたら「行くか、行かないかどっちかにしろ!」と怒鳴られるところだが、父はアバウトなのでとても助かる。

「それから、起こし方で1つお願いがあるんだけど、お母さんが起きないように静かに起こして欲しいんだ」

 なかなか起きないことが母にバレると、エライことになるからだ。

 

 例えば、夜間の勉強中に眠くなり、一旦寝てから勉強しようと時計をセット。寝るときは起きる気満々なのだが、ベルが鳴ってもなかなか起きられない、なんてことは誰にでも経験があると思う。

 我が子らもこんなことばかり。最近すっかり眠りの浅くなった私は、すぐに目が覚める。あの子起きないなあ……とは思うけれど、よっぽどの危機的状況以外は、私が起こすことはない。本人の問題だからだ。

 

 だが、母はこの状況を許せない。

 ある朝、私があと5分と思いながらモゾモゾしていると、いきなり激しい音を立てて部屋の襖が開いた。あっ! と思った瞬間に布団をバッと剥がされ、直後にピッシャーンとビンタをくらった。

「朝からうるさいんだよ! サッサと起きろ!」と怒鳴る母の声が一番うるさかった。

 音の出ない目覚まし時計はないものかと考えを巡らせたが見つかるわけもなく、それ以来、早朝に勉強するのをやめた。今はスマホのバイブ機能があるからいいけど……

 

 父が私を起こす声で母が起きたら、父も災難を被るので、巻き込む訳にはいかない。

「分かった。任せろ」と父。

 

 土曜の晩。

「明日は天気が良さそうだ。海に行くか?」

 父が予め声をかけてくれたので、私は早めに布団に入った。

 

 翌朝。私は、想像していなかった衝撃で目が覚めた。奈落の底に落ちたのかと思った。驚きで声も出ない。心臓が飛び出そうになり、即、目がバッキバキに覚めた。

 父は、一言も発せず、私の両足首を掴んで引っ張るという恐ろしい方法で起こしたのだ。

 

「効果てきめんだったろう?」

「まあ、そうなんだけど。年寄りだったらショック死していたよ」

「じゃあ、次からはどうするかな」

「肩をトントンとか、普通でお願いしますよ。もし、起きられなかったら、海は諦めるし」

 その日の車中は、音楽を聴くどころではなく、父の起こし方に爆笑しているうちに海に着いてしまった。

 

 思い起こしてみると、早朝散歩のときは、車で音楽を聴いていなかった気がする。私の好む曲の雰囲気が朝に合わなかったからかもしれない。

 大抵、父がかけたAMラジオを聞き流しながら、車窓からの景色をボーッと見ているうちに、海に着いた。

 

 夜釣りのときの海よりも少し遠い場所にある海岸堤防が父のお気に入りだった。

 市街地から海方面に車を走らせると工場地区に入る。早朝につき、まったく人けのない工場地区を抜けると、高くそびえ立つ海岸堤防一帯に辿り着く。

 3㎞ほど続く海岸堤防には、ポツポツと数か所階段があり、海側へ行けるようになっている。階段の周りには、釣りや散歩をする人たちの車が止まっている。

 私たちも同じように駐車し、階段を登って海側へ行く。海側の階段を降りると、まるで滑走路のように長い道が左右に伸びている。そして、その目の前には180度遮るもののない真っ青な海と空が広がっていた。

 それなりに旅行し、いろいろな海を見たけれど、私はこの海岸堤防から見る海が一番心に残っている。父と何度も散歩した思い出の海だからだろうか。

 

 父が亡くなる少し前。入院中の父にグーグルアプリから散歩した海岸堤防を探し、180度に広がる海のストリートビュー画像を見せた。

「あそこは、気持ちがいいからなぁ」

 父はそう言って目をつぶると、小さくほほえんだ。

 

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【家族の話】夜釣り

 父は、夜釣りに社用車で行っていた。本当はダメだけど……

 私は高級社用車のカーステレオの魅力にはまって以来、なんとか同乗しようと父が出かけるチャンスを狙っていた。

 父が釣り用具の手入れを始めると、すかさず頼み込んだ。

 釣り場は、家から20分程の海にある堤防で、ハゼ、ボラ、セイゴ、サッパなどが釣れた。

 堤防付近に路上駐車する。父のお気に入りの駐車スペースは、堤防の出入口付近で、トイレにも近めの街灯の下だった。

 夜釣りの時間は、21時から23時までの約2時間だ。

 私は兄のレコードからダビングしたカセットテープを3本持って行った。父が釣り道具一式を抱えて堤防方面に歩き出すと、即、カーステレオのプレイボタンを押す。

 父から「知らない人が来ても絶対に窓やドアを開けてはいけない」と口酸っぱく言われた。

 ぼんやりとしたトイレの明かりと、車の上の街灯以外周りは真っ暗で、人けも全くない場所。窓もドアもしっかりと閉めた空間の中、大音量で聴く曲はどれも心に響く。世界が自分のためだけに存在しているような気持ちになった。

 コンコン……。顔をあげると父がいた。ドアを開け、慌てて音量を下げる。

「何か変わりはないか?」

「うん、何もないよ」

 父はトイレに寄りつつ、堤防方面に戻っていく。時計を見ると20分しか経っていない。

 ドアをロックし、大音量に戻す。次第にまた自分の世界に入っていく。チャゲ&飛鳥のアルバム『TURNING POINT』の中の『くぐりぬけてみれば』を聴くといつも涙腺崩壊だ。

 コンコン……。ゲッ! また戻ってきた。慌てて涙を拭って顔を上げる。

「何か変わりはないか?」

「うん、何もないよ」

 父はトイレに寄りつつ、堤防方面に戻っていく。時計を見ると20分しか経っていない。

 ドアをロックし、大音量に戻す。次第にまた自分の世界に入っていく。

 まーた、20分後にコンコン……。父が戻ってきた。

「何も変わりないか?」

「うん、何もないよ。お父さんよくおトイレに行くね」

「まあ、冷えるからな」

 カセットテープの片面は約20分だ。片面が聞き終わるころ、そろそろ父が戻るだろうと音量を下げて待っていた。案の定堤防の出入口から父が現れた。

「何も変わりないか?」

「うん、何もないよ」

 2時間の夜釣りで父は6回もトイレに行った。父が帰り支度を進める中、ずっと座りっぱなしだった私も夜風にあたりに車から降りる。

「お父さん、何匹釣れたの?」

 冷やかしで聞いてみる。

「今日はダメだった」

「なんかいつも釣れてない気がするな」

「そうか? たまたまだよ」

 

 私が中学・高校時代、父はときどき夜釣りに行っていた。毎回付いていきたかったが、学校の行事や試験や部活で忙しく、なかなか都合がつかなかった。行けた回数は、6年間で5,6回といったところだろうか。

 父は毎回「知らない人が来ても絶対に窓やドアを開けてはいけない」と言い、毎回20分に一回トイレに行き、毎回釣果は0だった。

 携帯電話もない時代の話。

 父が私を心配して釣りに集中できないことを知りながら、私は父に甘えていた。

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【家族の話】父とドライブ

 父の会社に一度だけ行ったことがある。確か小6の秋だったと記憶している。

 夕食後、父が忘れ物を取りに会社に行くことになり、なぜか私も同行した。

 父は大手車メーカーにドライバーとして勤務していた。家近くの駐車場に止めてある社用車で、担当役員宅に毎日直接迎えに行く。

 会社上層部の役員を担当しているだけに、車は自社最高級車だった。その最高級車に内緒で初めて乗らせてもらった。

 当時の私は、3つ年上の兄の影響で佐野元春の曲を好んで聴いていた。思いがけずドライブできることになり、兄のステレオラックから佐野元春のカセットテープをこっそり拝借した。

 助手席に座り、早速カーステレオにカセットを差し込み、プレイボタンを押す。テープが回り始めて5秒後、今まで耳にしたことのない重低音が響き渡り、体がしびれた。

 数か月前、兄は成績が上がったご褒美にステレオセットを買ってもらっていた。モノラルの音しか知らない私に、ステレオの音は革命的だった。兄の外出中はスピーカーの間に座り、音の厚みを楽しんでは最高の気分に浸った。

 ところが、カーステレオの音は、それまでの私の最高の気分を軽々と超えてきた。目を閉じると、まるで目の前で佐野元春が歌っているように感じる。

 アルバム『SOMEDAY』には11曲収録されていて、ちょうど片道で全曲聴き終わった。その間、私は聞き惚れていて一言も発しなかった。父も一言も発しなかった。

 会社に着いたと言われて降りた場所は、私がイメージしていた会社とは違った。広い駐車場の奥に平屋の建物があり、父はその建物に入っていった。中は壁沿いにロッカーが並び、真ん中に大きなテーブル、端の方に簡易的なキッチンと食器棚があった。ドライバーの休憩室なのだろう。

 テーブルの上にQuick1が1つあった。Quick1とは、少し前に新発売されたカップ麺だ。それまでのカップ麺は調理時間が3分のところ、これは1分で食べられるという品で、ザ・タイガースがCMをしていた。

 食べてみたいと思ったときには父はもうドア付近にいて、早く出るようせかされた。

 行きは一般道だったが、帰りは首都高を使った。

 6曲目は、アルバム名と同じ『SAMEDAY』という曲だ。その曲が始まったとき、いきなり目の前に東京タワーが出現した。車窓から手が届きそうなほど近く感じる。

 なんという圧倒的な美しさなのだろう。ライトアップされた東京タワーと車内に響きわたる『SOMEDAY』は、私の心の中でピタリと1つに重なった。

「いい曲だな」と父が言った。

「うん」

 その後私は、巻き戻して『SAMEDAY』を何度も聴いた。もう東京タワーは見えなかったが、曲を聴けばいくらでも見える気がした。

 家に帰ってから、ふと、父は何を会社に取りに行ったのだろうかと思った。帰りも手には何も持っていなかった。

 今思うと、小6の秋と言えば私の心がささくれていたころだ。何か私に話したかったのかもしれない。

 しかし、結局父が発した言葉は、「いい曲だな」だけだった。お父さんらしいなと思う。

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【家族の話】中学受験後日談②

 中高生時代の私は、敢えてダンスのことは思い出さないようにしていた。レッスンに通えないのならば忘れるしかない。自分でレッスン代を稼いで、ダンスを習う日を夢見ていた。

 

 少しでもダンスに近いことがしたいため、中学では体操部に入部。完全に新体操と勘違いしていた。

 跳び箱と平均台は怖いが、床は好きだった。怖がりながらも得意分野なので上達が早く、毎日が楽しかった。

「中2からは塾に通うから部活は退部ね」

 中2に進級する直前、母が突然言った。

「また?」小5の夏の悪夢再来だ。

 体操に夢中とまではいかないが、部活の友だちや先輩との関係が良好なので辞めたくない。しかし、それは許されなかった。

 私は「技が怖いから体操はもういいや」と自分に言い訳をして退部。仲のよかった先輩との接点も絶たれてしまった。

 

 今思うと、私の高校選択基準は、あまりにも短絡的だった。

 分厚い『高校受験案内』の本から自分にあった偏差値の私立高校をピックアップ。その中から①大学付属校②共学校③繁華街近辺④通学1時間圏内の4つの条件で絞った。

 選択時の私は学校内での生活よりも、場所や交通の利便性に重きを置いていた。

 だから入学後に初めて、女子の部活がバレーボールとテニスしかないと知って落胆した。私は球技が大の苦手だ。そこで、プレーヤーを諦めて興味があったマネージャーになった。

 マネージャーは良い経験となったので、結果オーライではある。

 

 短大に入学して数日後、バイトの面接からの帰り道、以前習っていたダンス教室の先生にバッタリあった。こうして私は、一日のうちにバイト先とダンスの復帰が決定した。

 ダンス教室では、懐かしい友だちと再会。ずっと続けていたみんなは、とんでもなく上達していて、うらやましかった。

 

 バイト先は、九段下の割烹料理の店だった。店長と女将さんには、当時6歳のJちゃんという娘がいて、ダンスを習っていた。

 私は店長と奥さんに家族の一員のようにかわいがってもらった。Jちゃんも私に懐き、たまらなくかわいかった。

 女将さんとJちゃんは、毎年私のダンスの発表会を観に来てくれた。

 私も、Jちゃんの発表会を欠かさず観に行った。

 社会人になった後も付き合いは続き、月日は流れていった。

 

 Jちゃんは中学受験をし、私立の女子中に入学するとダンス部に入部。それまで通っていたダンス教室を辞めて、部活のみで鍛錬を重ねていった。

 年に一度「全国中学校・高等学校ダンスコンクール」がメルパルクTOKYOで開催され、Jちゃんの学校も参加。女将さんからJちゃんが出演する時間帯を教えてもらっていたが、私は開始時刻の朝10時から最終の夜8時まで、中高全ての演技を鑑賞した。

 お尻は痛いのを通り越してヒリヒリし、目を閉じれば棒人間が踊る残像が見えたが、好きなことをしているときは疲れを感じない。

 

 参加校のほとんどが私立の女子校であることから、ふと自分の中学受験を思い出した。

 そこで、自分の大きなしくじりに気がついた。

 「ダンス部のある中学校を受験するという選択肢」

 中学受験の目的を「ダンスのため」と定めれば、必死になって取り組んだことだろう。

 ダンスコンクールの歴史は長い。ということは、私が学生のころもダンス部が盛んな中学や高校があったに違いない。それに、部活だったらレッスン代もかからないのだ。

 無知とは、なんと恐ろしいものだ。

 母を落胆させ、自分を責め、自信をなくし、ダンスに復帰できないどころか忘れようとした6年間。

 くすぶり続けた自分が、情けない。

 

 校則お下げ髪中学校のK、千葉県の女子中学校のR、割烹料理屋の娘のJちゃん。合格した彼女たちは、自分で人生を切り拓いていた。

 私は諦め、逃げるばかり。

 

 やりたくない、でも、やらなければいけないことは、生きていれば山ほどある。

 そんなことに直面したとき、まずはそれを詳しく調べることが必要だ。そして、対処法を考え、目標を立てる。

 あとは突き進むのみだ。

  • 自分で中学受験について調べる
  • ダンス部のある中学の存在を知る
  • ダンスために受験に打ち込む
  • 合格する
  • ダンス部に入部、上達

 これが理想だったな。これが出来ていたら、割烹料理屋のJちゃんのように、海外で活躍するプロのダンサーにだってなれていたかもしれない。

 まあ、タラレバはここまでにして……

 

 あのころの私は、母が考え直してくれることばかり望んでいた。しかし、それではどうにもならない。

 

 人の考え方は変えることは出来ない。

 変えられるのは、自分の考え方だけだ。

 

 それに気付いたのは私が24歳のとき。中学受験から12年後に気付き、やっと自分の足でしっかり歩んでいけるようになった。

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