【こぼれ話】因果応報②

 Nくんには3歳下の妹がいた。名前はYちゃん。リオとYちゃんは1歳違いで、リオはYちゃんを慕っていた。近くに住んでいるので、登園後の帰り道、リオとYちゃんは遊びながら一緒に帰った。

 ところが、Nくんによるミツキ突き飛ばし事件の翌日から会わなくなってしまった。登園時も降園時も園庭では少し離れたところで見かけるのに、近づけない。まるで反発しあう磁石のようでもどかしかった。

 リオも「Yちゃん、いない」とさみしがっている。私の時間的行動パターンに変化はないので、避けられているとしか思えない。

 私とミツキの中では因果応報と言うことで納得をしていて、嫌な思いをさせたことを詫びるつもりでいたので、なんだか残念だった。

 ミツキとNくんは、元々ときどき遊ぶ程度の仲だったので、これまでと変わらぬ生活に戻っていた。

 1か月経過したある日の朝、ミツキの前歯の異変に気付いた。上の前歯が2本とも根元の方から黒ずんでいる。慌てて歯科医院に連れて行った。

 診察の結果、前歯2本ともに強打による亀裂が入っていて、神経が死んでいた。それにより歯が黒くなったと判明した。医師は、乳歯であったことが幸いで、乳歯が抜けて永久歯が生えてくるのを待つしかないと言った。ただし、永久歯に問題がないとも言い切れないと付け加えた。

 私は自分自身に腹が立った。この事件を受けて私の頭に一番初めに浮かんだのは、ミツキが加害者側でないことへの安堵だった。そして次は、痛がるミツキをよそに自業自得なのではと親身になってあげなかった。思い起こせば唇が腫れ上がって、相当痛かったに違いない。ミツキは滅多に泣かない。泣き止んでいるからといって痛くないわけではないのだ。ショックを受けていないわけではないのだ。

「ミっちゃん、ごめんね。ヒビが入って神経が死んでしまうほどの怪我で、痛かったんだよね。ママはもっとミっちゃんの気持ちを聞くべきだった。辛い思いをさせてごめんね」

「別にいいよ。ミっちゃんが悪いんだから」

 因果応報がミツキの心に刺さり過ぎていた。

「でも歯医者さんが、子どもの歯でよかったって。大人の歯が生えてくるのを待とう」

「大人の歯は大丈夫なの?」

「きっと大丈夫。そう祈ろう」

 Nくんのお母さんにも伝えないといけないと思った。降園時、素早くNくんのお母さんと先生に声をかけ、診断結果のみ伝えた。

 2人ともひどく驚き、Nくんのお母さんはまた打ちひしがれた。先生は、もし治療費が掛かるような事があれば、園児の保険があるので申請して欲しいと言った。Nくんのお母さんは一言も発せず、ただそこにいた。

 ちょうど同じころ、他の園児トラブルを耳にした。

 ある男の子が歌っているとき、近くにいた数人の子が茶化した。すると、その男の子がひどく怒って、一番近くの女の子の頬に噛みついて歯形がくっきりと残ってしまったのだそうだ。数日経っても痕が残っていたので、改めて男の子と両親が女の子の家に詫びに行った、という話だった。

 それは当然のことで、そうでなければおかしいと思った。

 その後もNくんのお母さんには近づけない日々が続いたが、ついにチャンスが到来した。

 参観日があった。この参観日は保護者が数名のグループ分けられ、決められた1時間のみ園内を自由に観ることが出来た。私とNくんのお母さんは同じグループだった。ミツキとNくんはそれぞれ違う友だちと遊んでいたが、ちょうど2人ともホールにいた。

 私はNくんのお母さんに話しかけた。私はこれまでミツキと話し合ってきたこと、Nくんに嫌な思いをさせてしまったことを詫びた。そして、Nくんとはどういう風に話しているのかを尋ねた。

「うちでは特に……何も……。ミツキくんの歯の状態のこともNは知らない……」

 驚きすぎて言葉を失っているうちに、参観時間が終了してしまった。

 私は、もうどうでもいいやと思った。

 ミツキの前歯を見たクラスのお母さんが、牛乳を飲むと白くなるらしいと教えてくれた。ミツキは牛乳嫌いだったが、毎日コップ一杯だけはがんばって飲み続けた。半信半疑だったが、少しだけ色が戻ったので驚いた。

 気付けば、リオとYちゃんも楽しく遊べるようになっていた。

 そして、祈りはとどき、ミツキの永久歯は正常に生えてきた。

 

 話は少し変わるが、ミツキ7歳、リオ3歳のころ。2人でじゃれ合っていたところ、ミツキの手がリオの右目のすぐ下に当たり、深いひっかき傷ができてしまった。

 ミツキは青ざめ、リオに何度も何度も謝った。リオは痛みで激しく泣いていたが、泣き止んだ後はケロッとして気にする様子もなかった。

 一方ミツキは、リオの傷の治り具合を日々確認し、申し訳なさそうにしていた。

 月日は流れ、ミツキ高2、リオ中1。

「ママ、リオの目の下の傷ほとんど目立たなくなったと思わない?」

「ミツキ、まだそんなに気にしていたの?」

「そりゃあそうだよ。リオは女の子だもん」

「もう心配しなくて大丈夫だよ」

「いや~本当によかったよ。オレずっと心配していて、稼いで皮膚の移植手術を受けさせようと思ってたんだ」

 真っ当な子に育ったなとうれしくなった。

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【こぼれ話】因果応報①

 ミツキが幼稚園年長に進級して間もない、ある日のお迎えのときのこと。私が園に着くと園児の引き渡しは大方終了していて、教室内に園児は数人しかいなかった。

 できるだけ早く迎えに来て欲しいといつも言われているので、申し訳なさそうな顔で教室内を見渡したが、ミツキはいなかった。

「あ、葉野さん。ミツキくんは職員室にいるんです。一緒に行きましょう」

 なんだ、なんだ。どうした、どうした。先生の後に付いて職員室に入ると、窓際の椅子にミツキがちょこんと座っていた。

 そして、その顔は鼻から唇、顎にかけて擦り剥けていた。ギョッとして見ていると、その隣には同じクラスのNくんとお母さんがいて、2人は顔も上げられないほど泣いていた。

 友だち親子が泣いていて、ミツキは怪我をしていて座っている。なんだ、なんだ。どうした、どうした。私は驚きすぎて思考がまとまらない。

「お迎えの時間の少し前のことなんですけど、園庭でミツキくんが遊んでいたところ、Nくんが後ろからミツキくんを突き倒したんです。不意打ちだったので地面に顔から倒れてしまいました。すぐに冷やして今は痛みも柔らいで、気持ちも少し落ち着いたところです」

 先生が私に耳打ちするように言った。

「ああ、そうだったんですか」

 このとき私は何よりも先に、ミツキが加害者でないことに安堵してしまった。

 ところで、なんでこの親子は泣いているんだ?

「Nくんには、危険なことで、いけないことだと話をしました。このようなことはもう二度とないようにこちらも気をつけます。申し訳ありませんでした」

「はあ」

「ただ、Nくんがミツキくんを押したのには訳があって……」

 うわ、なんかきた。

「午前中の園庭遊びのときに、数人でタタカイごっこをしていた様で。そのときに、Nくん対ミツキくんを含む数人だったそうなんです。Nくんはその恨みでミツキくんを押したと言っているんです」

 そういうことか……。では、仕方あるまい。

 ってなるかー! なんだか急に腹が立ってきた。

「Nくんはおとなしい子ですから、Nくん自身も事の次第に動揺しています。お母さんもショックを受けてしまって、ああしてずっと泣いているんです」

「はあ」

 え? だから、何?

「あ、どうぞ、中へ。ミツキくんのところに行ってあげてください」

 私は先生にもNくん親子にも何か言いたいのに適切な言葉が見つからない。

「ママ、前歯が痛いよう」

 唇も腫れ上がっていた。

「痛そうだね。今日はもう帰って、お家で冷やそう。すぐに治るから大丈夫だよ」

 立ち上げって振り向くと、Nくん親子の姿はもうなかった。

 え? そういうもの? 確かに初めにNくんに嫌な思いをさせたのはミツキかもしれない。でも、嫌な思いをしたら、人を突き飛ばしていいのか? そして、ミツキの方が分が悪いこの雰囲気はいったいなんなんだ?

  疑問はたくさんあるが、まずはミツキのことが最優先だ。

 家に帰って少し落ち着いてからミツキと話し合った。

「ミっちゃん、痛かったね。びっくりしたよね。かわいそうに。早く治りますように」

「前歯が痛いんだけど、とれたりしない?」

 前歯を優しく触ってみる。

「グラグラしてないし、大丈夫だよ。Nくんはなんでミっちゃんを突き飛ばしたと思う?」

「ミっちゃんを恨んでいたからだ」

「恨まれるようなことしたの?」

「わかんない」

「午前中の遊びのときに、Nくん対大人数だったの?」

「うん。でも、ミっちゃんだけが悪いの?」

「ううん。そんなことはないよね。でもね、きっとミっちゃんが目立っていたんだと思う。ここ最近、ママはミっちゃんに何度か注意してると思うんだけど。仲良し4人組で遊ぶときも、よく3対1になってるよね。そして、ミっちゃんはいつも多い人数の方にいるよね。今回のことは、そういうことの積み重ねかもしれないね」

 ミツキはまっすぐな目でこちらを見ている。

「Nくんは1対大人数になって、嫌な思いをしたと思うんだ。ミっちゃんは、自分1人対たくさのお友だちだったらどんな気持ちになるだろうか」

「嫌だ。楽しくない」

「そうだよね。そう思うのなら、自分がやられて嫌な事はやるべきではないんだよ。嫌な事を人にすると、嫌な事が返ってくるんだよ。反対にうれしい事をしたらうれしい事が返ってくる。ミっちゃんはうれしい事と嫌な事どちらが返ってきて欲しい?」

「うれしい事」

「そうだよね。だったら人にもうれしい事をしなければいけないよ」

「わかったよ」

「この世の中は、良いことも悪いことも必ず自分に返ってくるようになっているんだよ。こういうことを難しい言葉で『因果応報』って言うんだよ。大昔から良いことも悪いことも自分に返ってきていたからこの言葉が生まれたんだよ。なぜかはママにもわからないけど、不思議とそういう仕組みになっている。今はまだミっちゃんには難しいけど、いずれ分かるときがくる。だから、頭の片隅に入れておいてね」

 ミツキにとっては辛い出来事だったが、良い教訓となったことだろう。

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【こぼれ話】証言

 ミツキが小学2年生に進級する直前の春休みのこと。

 リオを連れて小学校に隣接する公園に遊びに行った。公園にはミツキもいて、10人ほどの友だちと共に遊んでいた。

 ミツキたちは、二手に分かれて鬼ごっことかくれんぼを混ぜたような遊びをしていた。ミツキは追われる側のチームで、大声でギャーギャー言いながら逃げ回っていた。

 しばらくして鬼の追跡から逃れたミツキは、子どもなら余裕で2人は入れる程度の大きさの箱形遊具の中に隠れた。箱の壁のうちの1つには大きな丸い穴が開いていて中が見える。

 リオが箱の中にいるミツキに気付き、箱の丸い穴に近づいていった。鬼から逃れたミツキは緊張感が溶けたようで、落ちていた棒で地面に絵を描いていた。

 そこに同じ追われる側のTくんが、追っ手を逃れて走り込んできた。ミツキは暢気に絵を描いている。

「鬼が来ちゃうぞ」

 Tくんがミツキに危機感を持たせようと、棒を取り上げようと手を伸ばした。それに気付いたミツキはTくんの手を払いのけようとした。ところが、その手がTくんのこめかみの辺りに当たってしまった。

 「痛い!」と言って俯くTくん。驚いて「わっ、ごめん」と叫ぶミツキ。一部始終見ていた私も慌てて駆け寄った。

「Tくん、大丈夫? ごめんね。どこに当たったの? 見せてみて」

 Tくんは泣いていて顔を上げない。私はタオルを水で濡らし、患部に当てようとしたがTくんはどうにも動かなかった。

 異変に気付いた友だちが集まってきた。

「どうしたんだよ」

「オレの手がTに当たっちゃったんだ」

「T、大丈夫か?」

「葉野、謝ったの?」

「もう、あやまったよ」

「もう一回謝れよ」

「T、大丈夫? ごめんね」

「T、葉野が謝ってるぞ」

 Tくんがコクンと頷いた。

「じゃあさ、握手しろよ」

 ミツキが手を差し出した。Tくんもイヤイヤだが手を差し出し、握手をした。

「じゃあ、続きやろうぜ」

 ミツキとTくんを残して、散り散りに走って行った。

 子どもたちの様子を見ていた私は、小2ともなるとトラブルを自分たちで解消できるのだと、ただ驚みながら見ていた。

「Tくん、まだ痛い? ちょっと見せてくれないかな?」

 私は何度もTくんに問いかけたが、Tくんは膝を抱えて丸まりびくともしなかった。もう泣いてはいなかったが、まだ痛がっているのか、拗ねているだけなのかよく分からなかった。

 しばらくして、拗ねているだけだろうと判断したミツキは、鬼ごっこの輪に戻っていった。

「Tくん、お家にお母さんいるかな? 一緒に行ってお母さんに見てもらおうか?」

 何度となく問いかけたが、全くの無反応だった。仕方ないので気持ちが落ち着くまで待つことにした。

 そのとき、大きな泣き声が聞こえた。1人で遊んでいたリオが、転んだのだ。慌ててリオの方に私は走り寄った。

 リオを立たせ、手と膝に付いた土を払い、Tくんの方を振り向くと、もうそこにTくんはいなかった。

「あれ? Tくんは?」

 近くにいた子に尋ねた。

「今、チャイムが鳴ったから帰ったよ」

「え? チャイム?」

 時計を見ると4時半だった。3月いっぱいはチャイムは4時半に鳴る。

「あ、そうか。今日までは4時半だね。Tくんどんな感じだった?」

「下向いてたからわかんないけど、拗ねてるだけじゃん?」

「それならいいんだけど……」

 

 2年生に進級して初めての保護者会の帰り道、Tくんのお母さんに呼び止められた。Tくんのお母さんとはこのときが初対面だった。

「春休み中にうち子とミツキくんが、派手なケンカをしたみたいなの。うちはお兄ちゃんもいるから男の子同士だと、そういうこともあると分かってはいるんだけどね。でも、ちょっと怪我が大きかったから葉野さんにも話しておいた方が良いと思って」

 春休み・怪我のキーワードですぐに3月31日のことだと思った。けれど、あれはケンカじゃない。

「あの、3月31日に学校の隣の公園で遊んだときのことですか?」

「そう、春休みに葉野くんと遊んだのはその日だけだったと思うから。家に帰ってきたら、こめかみが腫れていて、聞いたら葉野くんと殴り合いのケンカになったらしくって。何日か痣が消えなかったの」

「そうだったんですね。本当にごめんなさい。実は私、その現場にいたんです。Tくんは痛がっていて……。私がすぐにTさんの家に連絡すべきでした。ごめんなさい。でも、ケンカではないんです……」

 私はことの顛末を詳しく話した。Tさんが「そうだったのね」と言って納得してくれたので、私は心底ホッとした。

 私は自分の判断の甘さを悔いた。やはり連絡すべきだったのだ。子どもが怪我をして帰ってきて、Tさんは不安と怒りでいっぱいだっただろう。

 Tくんにとってあれは、殴り合いのケンカに感じていたのだろうか。何かことが起きたとき、一方の証言だけでは不十分だと再認識した。

 ミツキやリオの話も全てを鵜呑みにしないようにしようと、肝に銘じた。

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【こぼれ話】強情リオ

 ミツキ5歳、リオ1歳6か月のこと。

 ある秋晴れの気分のいい日の午後。リオの手をひいて、ミツキの幼稚園まで歩いてお迎えに行った。いつもなら玄関先でリオをベビーカーに乗せて、幼稚園まで続く川沿いの緑道を急ぎ足で歩いて行く。この日は時間に余裕もあり、リオと手をつないで散歩をしたい気分だった。つないだリオの小さな手が、赤ん坊から幼児の手に成長していることに気付いていとおしく思う。

 リオは生後9か月で歩き始めたとはいえ、まだ1歳6か月だ。すぐに疲れるだろうと思い、片手でベビーカーを押して行った。大人の足でズンズンと歩いて10分のところ、のんびり40分かけて歩いてようやく到着。予想外にすべて歩ききったリオの爽快な笑顔はまるで晴れた空のようだった。

 園児の母親たちに「リオちゃん歩いてきたの? すごいね」とほめられ、リオの気分は上々。このときの私は、こらから試練が始まるなどと思いもしなかった。

 試練は翌朝から始まった。幼稚園の登園の際、いつものようにリオをベビーカーに乗せようとすると、体をのけ反らせ激しく抵抗した。玄関先で揉めているうちに遅刻ぎりぎりの時間になってしまった。何が何でも乗りたくないリオと、何が何でも乗せたい私との戦いの火ぶたが切って落とされた。

 根負けした私はリオの手をぎゅっと握り、無言でグイグイと引っ張って歩いて行く。リオの足が、もつれるギリギリのところで回転しているのがわかる。気の優しいミツキが心配そうに見ている。ときどき立ち止まっては、ベビーカーに乗せようとするが、リオも相当な頑固者である。

 登園後の帰り道には時間にも余裕があるので、そっと手をつなぎ、歩調を合わせて歩いてあげたいと思う。しかし、そのころにはリオは疲れてベビーカーで寝てしまうのである。

 この戦いは、朝の登園と午後のお迎えのときに毎日続いた。次第にリオは体力がついてきて、日によっては全行程を楽に歩ききるようになった。そうなると、ベビーカーは邪魔になるのだが、うまくいけば乗ってくれることもあるので手放せない。かといって、持っていっても乗らず仕舞いということもある。

 ひどいときには乗るのも歩くのも嫌がり、ベビーカーを押しながら抱っこということもある。こんなとき、気を利かせたミツキが、私の代わりにベビーカーを押してくれた。

 心の中で「早く乗れ」と念じている自分に嫌気がさし、思い切ってベビーカーを持って行くのをやめてみると、かなり気持ちが楽になった。

 一方リオは、歩くことに慣れてきたのだろう。感性の赴くままに遊び歩きをするようになった。すぐに座り込み、遊び始めるので前に進まない。「おいて行くよ」と言って私が歩き出すと、半ベソをかいて追いかけてくる。こうするとある程度距離が稼げた。

 しかしこれを許さなかったのが、ヘンなところで生真面目なミツキだった。「かわいそう」と言ってリオにかけ寄り、手をつないで連れてくる。

「ママはすぐにリオちゃんを置き去りにする。パパはママを怒った方がいいと思う」

 ついには夫に報告されてしまった。

 少しずつ春を感じるようになると、雨の日が増えてきた。初めての雨の日、レインコート、長靴、傘の雨具フルセットを身にまとう自分の姿に、リオは酔いしれていた。カバーをかけたベビーカーを持って行ったが、結局は邪魔になるだけだった。雨が降ってもしっかりと歩く娘をえらいとも思ったが、小雨ならともかく、大雨の日は無理があるだろうと先が思いやられた。

 大雨の日の朝。

「今日は歩くのはナシだよ。ベビーカーに乗ってね。雨ザーザーで大変。わかったね」

 朝起きてから、家を出るまで家族総出でリオを説得した。リオも窓から外を眺めながら、ウンウンとうなずいていた。

 ところが、いざ出かける準備を始めると、結局リオは雨具フルセットを身にまとった。

 傘はぶら下げて歩いているだけなので、フードをかぶっていても顔はビショビショ。レインコートを伝って雨が長靴の中に入ってくるので足もグショグショ。

「なんでここまでして歩きたいのかね。ミっちゃん方が乗りたいぐらいだよ」

 総領の甚六ともいえるミツキの一言である。

 普段と違う状況で疲れの限界に達したのだろうか、急にリオの足元がふらつきだした。ベビーカーは置いてきたので、リオを抱きかかえるより他ない。レインコートが突っ張って抱きづらい。

「ママ、大変な思いをさせてごめんね」

 私がよほどつらそうに見えたようだ。なぜかミツキが涙ぐんだ。優しい子だ。

 翌日は青空が広がっていた。リオは自らそそくさとベビーカーに乗った。

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【こぼれ話】リンゴちゃんごっこ

 「ママ、リンゴちゃんごっこしよう」

 散歩の途中にベンチでひと休みをしていると、4歳のリオがニコニコしながら言った。

「リンゴちゃんごっこって何?」

「リオちゃんが考えた遊びだよ」

「ふーん。どうやるの? 教えて」

「あのね、リオちゃんが『リンゴ』って言ったら、そのあとに『リンゴ』って言うの」

「分かった。ママはリオのあとに言えばいいんだね」

「うん、そう。じゃあ言うよ」

 なんのオチもなさそうだ。4歳の子どもの思いつきの遊びがどの程度のものか想像するに容易い。

「じゃあ言うよ」

 リオが息を吸い込み、「リ」の口になったところで私も同時に言ったらどうなるか試してみた。

「リンゴ」

 私とリオの声が重なった。

「違う、違う。リオちゃんが『リンゴ』って言うのを聞いてから、ママが『リンゴ』って言うの」

 リオはニコニコ笑いながら言った。

「あ、ごめん。間違えちゃった。リオのあとに言うのね」

「そうだよ。もう一回言うよ」

 リオが息を吸い込む。

「リンゴ」

 リオは笑い転げた。

「違う、違う。ママはリオちゃんのあとだよ」

「あ、そうだった。ごめん。ついね」

「とぅい、じゃないよ。ママ、しっかりして」

 リオは『つ』の発音がかわいかった。

「もう一回言うよ」リオが、息を吸い込む。

「リンゴ」

 手を振りながら笑い転げるリオ。

「違う、違う。ママはあとだよ」

「あ、そうだった。ごめん。ついね」

 私は笑うのを堪えて、申し訳なさそうな顔をした。

「だから、とぅいじゃないって。リオちゃんにとぅられて言いたくなっても、我慢して。ママはもう大人なんだから」

「分かった。ママはもう大人だから我慢する」

「じゃあ、言うよ」

 息を吸い込むリオ。

「リンゴ」

「こらー! ママはあとから言うの」

 言葉と裏腹に爆笑している。

「いい? ママ。もう一度ママにも分かるようにゆっくり言うから、しっかりと聞いてね。それで、忘れないでね」

「わかった。よく聞くし、忘れない。でも、ちゃんと出来るか自信ない」

「ママ、大丈夫だよ。自信持って。リオちゃんがしっかり教えてあげるから」

 リオに励ましと説明を受けて再挑戦。

「リンゴ」

 その後も同じ状態が続くと、リオは笑いながらも首をひねった。そして、ボソボソとひとり言を言い始めた。

「このママなんだかおかしいな。こんなに教えているのになんで分からないんだろう? どうしたら分かるのかなぁ」

 頭を抱えて考え込んでいる。

「ママ、お口チャックって知ってる? 今からリオちゃんがママのお口にチャックをしてあげる。それでママが言う番になったらチャックを開けてあげるからそうしたら言ってね」

「おお、なるほど。いいサービスだね。それならママにもできるかも」

 リオが私の口の右端から左へチャックを閉める。

「ママのお口はもう開かない? 」

 私はコクリと頷いた。

 リオが息を吸う。

「リンゴ」

「わあ! ボロいチャックだなあ」

 私は爆笑だが、リオは真剣な表情だ。

 その後もチャックをしても、手で塞いでも開いてしまう私の口に、リオは何度も首をひねった。

 気がつくと30分も時間が経っていた。リオの言う通りにしていたらどんなゲームになっていたのだろうか。私はリオがじれだしたら従おうと思っていたのだが、リオは一切じれなかった。それどころか楽しそうだった。教えてあげる喜びを感じつつ、何度説明しても理解できない母親を助けたいという思い、そしてなんとか遊びを成功させたいという情熱が伝わってきた。

 リオはやっぱり春の妖精だと思った。

 ミツキに勉強を教えるときの私とは大違いだ。私は自分の未熟さを痛感した。

 リオからも学ぶことが多い。

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【こぼれ話】リオ

 ミツキには4つ年下の妹のリオがいる。存在感たっぷりのミツキのことばかり書いてきたが、これからはリオについても書いていこうと思う。

 リオは4月に生まれた。ミツキの出産のときに帝王切開だったので、リオも自動的に帝王切開となった。

 2,694グラムと小さめではあるが、ミツキの2,230グラムに比べるとしっかりしていた。

 リオの産声はなんとも美しかった。

「こんなにきれいな声の赤ちゃん初めてだわ」

 看護師さんがそう言うほど透き通った声で、まるで天使がハミングしているようだった。この子はきっと天使か妖精の出身に違いない。私はそう思った。

 初めて抱き上げたリオは、ふんわりしていた。肉のないゴツゴツしたミツキとは全然違った抱き心地で、ふわふわのクッションのようだった。肌感も男女でここまで違うものかと驚いた。

 5日の入院期間を問題なく過ごし、予定通りの退院となった。退院の日、入院費などの精算を終えて、リオを抱いて病院の外に出た。自動ドアが開いた瞬間、オオムラサキツツジの香りが私たちを包み込んだ。

『やっぱりこの子は春の妖精だ。妖精たちが祝福してくれている』

 私はリオが春の妖精の出身だと確信した。

 リオはよく泣く赤ちゃんだった。布団に寝かされるのが嫌なようで、抱かない限りはずっと泣いていた。

 リオが生まれてからの3か月間は、私たちは実家にお世話になっていて、ミツキは実家から車でプレ幼稚園に通っていた。実家にいる間は、私と父母の3人交代でリオを抱き続けた。抱いていて寝たなと思って布団に下ろすと目を覚まして激しく泣いた。夜中でさえも布団で寝ないので、私はリオを抱いたまま壁により掛かって寝ていた。

「昔は抱き癖を付けるとよくないなんて言ったけど、本当はいっぱい抱いてやった方がいいらしいよ。大人が3人もいるんだからいっぱい抱いてあげましょう」

 母は孫にはめっぽう優しい。

 実家から戻ると交代で抱いてあげることができず、激しく泣かせることとなった。食事を作るときはおんぶをするのだが、激しく脚を動かして、私の背中を登っておんぶ紐から脱出してしまった。

 リオを昼寝布団に寝かせておくしか手立てがなかった。もちろん、リオは一層激しく泣いた。初めは「エーン」だった鳴き声が、「ギャー」となり、そのうち「シャー」になった。まるでアブラゼミの大群の鳴き声のようだった。

 潮騒、川のせせらぎ、蝉の声。3大「初めは聞こえているが、慣れると聞こえなくなる音」だ。

 初め妖精出身だったリオは、いつしかリオ蝉になっていた。私はリオ蝉の泣き声に慣れて、さほど気にならなくなった。抱いてあげられないときは仕方ないのだ。

「ああ、またリオ蝉が泣き始めた。急いでごはん作るから待っててね」

 そのうち疲れて寝てしまうだろうと思うのだが、リオ蝉はしつこく泣き続ける。作り終わって抱き上げると、すぐに泣き止んだ。

 慣れたと言えども、いつまでこんな生活が続くのかと思うこともあった。こちらは日々寝不足なのだ。

 9か月で歩き始めると、体力消耗が激しいのか徐々に夜は布団で寝るようになり、10か月以降は、昼寝も布団で寝るようになった。

 今思うと、リオは体力が有り余っている赤ちゃんだったのかもしれない。

 生後3か月のころ、友だちから譲ってもらったバウンシングシートにリオを寝かせていたときのこと。脚をばたつかせて激しくバウンドして楽しんでいると思ったその次の瞬間、腹筋で起き上がり自力でシートから這い出てしまった。画期的と思われたバウンシングシートは、使用開始1週間でお蔵入りとなってしまった。

 そんな元気なリオを寝かせよう寝かせようとする私への反逆だっただろう。

 よく遊び、よく寝るようになると、次第に激しく泣くことはなくなり、リオは元の愛らしい妖精へと戻っていった。

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【こぼれ話】カタッチュ

 スーパーでバジルを買ったら葉にカタツムリが2匹ついていた。当時4歳のリオはとても喜び、2匹ともカタッチュという名前をつけて飼い始めた。

 インターネットでカタツムリの飼い方を検索すると、好きな食べ物は、キャベツ・キュウリ・にんじんとある。カタツムリのカラの成長には、卵の殻がいいようだ。

 こんなに固いものも食べられるのかと思ったが、夜中など部屋中が静かになると「ガリガリ」と意外にも力強い音が聞こえてきた。

 キャベツやキュウリを食べると緑のフン、にんじんを食べるとオレンジのフンをするのでおもしろかった。

 湿った土を敷いておくと土の中にたまごを産み付けるとあった。カタツムリは雌雄同体なので、2匹いるとたまごを産んでしまう。私は産んでもらっては困ると思い、キャベツと卵の殻だけケースに入れ、1日に数回霧吹きで湿り気を与えようと決めた。

 2匹のカタッチュの世話はリオの担当だ。リオはカタッチュをかわいがり、せっせと世話をした。

 カタッチュのカラの渦巻きは、初め一回転半ほどだったが、二回転半にまで成長した。

 飼い始めて1年ほどした梅雨のある日曜日、夕飯の支度をしている私のもとへ、リオがカタッチュの入ったケースを走って持ってきた。

「ママ、キャベツの下を見て。これってカタッチュのたまごだと思うんだけど」

 娘は驚きと喜びが入り交じった表情をしながら、しおれたキャベツをめくった。そこには、すしネタのとびっこを白くしたような50粒ほどの球体がひとかたまりにこんもりと置かれていた。

「きゃー! なにこれ気持ち悪い。やだやだ。無理! 無理! ちょっとパパにどうしたらいいか聞いてきて!」

 実は私、虫が大の苦手なのである。昆虫の絵本や図鑑を読んだり、虫を捕りに行ったり、虫を飼ったり、セミの羽化を観察したりと、楽しんでやっているように見せているが、本当は子どもたちのために必死なのだ。

 カタッチュのケースに何か他の虫が入り込み、たまごを産み付けていったのではないかととっさに考え、全身に鳥肌がたった。そのとき、リオの大きな泣き声と訴える声が聞こえてきた。

「パパ! 気持ち悪いたまごみたいなものがある。早く捨てて!」

 私は耳を疑った。さっきまでリオは驚きと喜びの表情だったのに、私の心ない一言ですべてが変わってしまったのだ。

 はっとした私は、すぐにインターネットでカタツムリのたまごの写真を探した。ケースの中の物体がカタツムリのたまごだと確信し、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。

「ごめんね。ママ、突然なことでびっくりしちゃったの。たまごは産まれないと思っていたからね。大切に育ててきたカタッチュがたまごを産んだら、本当は喜ぶことなのにね。このたまごがかえるように育ててみようか」

「うん、ママありがとう」

 リオは、今度は一気にキラキラした笑顔になった。私の一挙一動が、ここまでリオに影響を与えてしまうのだと思うと怖くなった。

 別のケースに水を含ませたティッシュを敷き、たまごだけを移し入れた。湿り気がなくなるたびに霧吹きで水をかけると、たまごが有精卵であれば1か月以内に孵化するとのことだった。

 3週間ほどしたころ、白かったたまごの色が茶色く変色し、腐り始めたように見えた。もうダメだろうと思ったが、あと1週間様子を見ようと決めた。

 翌朝、リオを幼稚園に送った後、ふとたまごのケースを見ると、たまごが割れているように見えた。顔を近づけてよく見ると、たまごの中からまだカラの渦巻きが一回転に満たない、遠目にはゴマにしか見えないほどの小さなカタツムリが、一斉にたまごの殻を破って出てきて、目玉を伸ばしてキョロキョロと動かしていた。

 腐ったように見えたのは、赤ちゃんカタツムリのカラの色が、たまごの殻から透けて見えていたからだった。

 私はうれしくなり、赤ちゃんのケースを持って幼稚園にリオを迎えに行った。リオに一刻も早く知らせてやりたかったし、他の園児や先生にも見せたかったのだが、この行動によりまたリオを困惑させてしまった。

 園長先生から幼稚園に少し赤ちゃんを分けてもらえないかという申し出を受け、私は二つ返事で勝手に承諾してしまったのだ。

「じゃあ、7匹だけね」

 幼稚園に分ける旨を伝えると、リオは泣きそうな表情で渋々言った。

 私は軽率だったと深く反省した。リオが毎日世話をしてきた赤ちゃんたちなのだ。幼稚園にあげることを事前に話し合うべきだった。そもそも、私が勝手に幼稚園に持って行ってはいけなかったのだ。

 本来なら帰宅したリオが、孵化した50匹のカタッチュの子どもたちを見て喜びを噛みしめてから、たくさんいるから幼稚園や友だちに譲ってはどうかと提案するべきだった。

 実際、数日後気持ちが落ち着いたリオは、もっとあげれば良かったと言い、幼稚園や友だちに追加で分けた。

 私たち親子はママ友に「カタツムリブリーダー」と呼ばれた。

 その後、我が家に残った赤ちゃんカタツムリは10匹ほどで、そのうち大人まで成長したのは1匹だけだった。初代カタッチュと2代目カタッチュは、それぞれ3年ほどの寿命を全うした。

 カタッチュを通じて、親としてのあり方、子どもへの心ある応対を深く考えされられた。

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